足尾鉱毒事件自由討論会 -10ページ目

何のための河川調査か・15

田中正造は、「渡良瀬川が利根川と江戸川に変わる千葉県関宿の川幅を拡げれば、治水問題はすべて解決する」といい続けました。


このことはすでに何度か述べましたが、河川工学者でありながら、この本で大熊孝は、専門分野のその辺のことについても、正造の素人河川論にべったり追随しています。


明治18年に護岸工事をして川幅を狭めた上に、江戸時代には26~30間はあった関宿の堤防を、明治31年にはセメントで改築して川幅を9間強にまで狭めてしまったと説明した上で、大熊はこう書きます。


「政府がこのような強化を行った理由は明らかでない。しかし、大正2年6月20日に島田宗三が栃木警察署に宛てた<谷中残留民居住立ち退き説諭に対する回答書>では、次のように述べている。ただし、この回答書は田中正造の口述を筆記したものであり、正造の意見そのものである」


「田中正造は次のように主張していた」


「明治29年の大洪水で渡良瀬川の毒水が利根川を犯し、その運河を遮り、江戸川を横切り、氾濫して(東京)府下の農商務大臣榎本武揚の邸を浸した」


「そこで、直ちに江戸川に技師を派遣して設計させ、オランダ工法によって、31年に至り自然の流路たるその江戸川の河口は千葉県関宿地先のおいて石堤を持って狭窄し、かつ石とセメントで川底27尺を埋め、利根川各所に流水妨害工事をして洪水を耐え、かつ渡良瀬川の落合たる川辺村本郷の逆流口120間を拡げて、上流に水害をつくるとともに、下流東京府下の鎮撫に努め、もって一時の急を逃れようとした」


「これが原因して、一朝洪水あるときは、逆流滔滔として沿岸諸村を圧し堤防破れ、田宅荒廃し、人屋流れ、鉱毒に加うるに人為の水害頻りに至り、農民の困窮目もあてられぬ状態に陥った」


正造の政治的発言を、このように引用した上で、大熊は何の検証もすることなく、これを全面的に受け入れる見解を次のように述べるのです。


鉱毒による被害がすでに激化しており、利根川の舟運に変わる鉄道輸送網がほぼ完成されていることを考えあわせるならば、(政府による関宿の極端な強化は)田中正造の見解のように、東京府下に鉱毒水が氾濫することを恐れての対策であると考えることには矛盾がないように思われる。特に、江戸川河口行徳の塩田を考慮した場合、これへの鉱毒被害の拡大をもっとも恐れたためではないか、と考えられる」


何のための河川調査か・14

大熊孝の著書への批判をつづけます。

この本で著者は足尾鉱毒事件の説明をしていますが、その中に次のような部分があります。


「明治35年9月の洪水で、鉱毒を含まない土がそれまでの鉱毒の上にかぶさり、被害が軽減される傾向が現われ、36年には多少の収穫が見られ、37年には平常に近い収穫が得られるという状態であり、鉱毒問題に関する運動は急速に下火になった」


事典や教科書で足尾鉱毒事件のことを調べれば必ず書いてありますが、鉱毒の被害は必ず洪水の後で起こっています。川底に沈澱していた公害物質が洪水に伴って沿岸の農地を汚染するからです。

それなのに、なぜ「洪水で、鉱毒を含まない土がそれまでの鉱毒の上にかぶさる」のでしょう。

汚染していない土はどのように鉱毒の上に「かぶさる」のでしょう。


この人は、科学者でありながら現実には起こり得ない現象が起こったといっているわけです。しかも科学者でありながら何の証明もしていません。

彼がなぜこんな珍妙な解説をしたかといえば、それは、彼が田中正造が思いつきで創作した法螺を、本当の話だと信じてしまったからです。


大熊孝はこのことに全く触れていませんが、政府の厳命に忠実に従った加害者の古河鉱業は、明治30年に大規模な鉱毒防止工事を敢行しました。


その効果は絶大で、明治34年秋には、「鉱毒被害地も、激甚地を除く外は極めて豊作にして」(朝日新聞・10月6日)という記事に見られるほどの回復振りを示し、35年秋の洪水でも農地は汚染されなかったらしく、翌36年の秋には正造が、全部で10回の演説のうち8回も「被害地豊作の実況」と題名をつけたほど、鉱毒被害は消えていたのです(『田中正造全集・別巻』の年譜を見てください)。


「古河の鉱毒防止工事は全然効果がないのだ」といい続けてきた正造は、この時どう対処したでしょう。

大熊孝等学者達がみんな騙された次の法螺話を作ったのです。


「昨年9月の風雨の際、渡良瀬川本支流水源の山々が10里以上に渡って崩れ、ほとんど50年分の土が数尺被害激甚地の上に覆いかぶさった。その新土は天然の新肥料になったので今年は5倍の豊作になった。今は3歳の小児でも、豊作の原因が古河鉱業の鉱毒防止工事のためでないと知っている」


こんな馬鹿げたフィクションをなんで学者まで信ずるかといえば、彼らが正造によって完全に洗脳されているからです。

何のための河川調査か・13

前新潟大学教授・大熊孝は、著書『利根川治水の変遷と水害』に、次のようにも記述しています。


「明治25年には、古河市兵衛が農民と紛鉱採集器の据付けを条件に、<永久に苦情申し上げ間敷く>を含む契約をとりかわしている」


少し解説を加えると、加害者責任を認めた古河市兵衛は、正造が鉱毒問題を帝国議会で取り上げた翌年から被害民と示談交渉を始め、示談金を支払う約束を次々と取り交わしていきました。

被害農民の数が多いので一人当たりにすれば金額はわずかですが、明治29年までに契約を終えた示談金の総額は、10万円(今の感覚では10億円)には相当したということです。


ところで、明治25年8月23日に栃木県梁田郡久野村の稲毛教次郎ら13名と交わした契約書には、次のように書いてあります。


第1条 古河市兵衛は、粉鉱の流出を防ぐために明治26年6月30日を期し、精巧な紛鉱採集器(公害防止設備)を足尾銅山の工場に設置する。


第2条 古河市兵衛は、徳義上示談金として、左のごとく支出する(内容省略)。


第3条 明治29年6月30日までは、紛鉱採集器の試験中のため、契約民は苦情を唱えたり、行政・司法の処分を乞うなどしてはいけない。


第4条 明治29年6月30日以降、紛鉱採集器がその効を奏したときは、この契約は解除される。


第5条 紛鉱採集器が万一効力がないときには、なお将来について臨機の協議を行い、別段の約定をする。 


 いったい、この示談契約書のどこに「永久に苦情を言わない」などと約定してあるのでしょう。

契約書の内容を確かめずに、正造側の書いたものを鵜呑みにしたから、こんな偽情報を読者に流したのです。


学者であり研究者で、ましてや科学の分野の学者ですから、確認することは不可欠の基本事項です。この契約書などは簡単に探すことが出来ます。何という怠慢な科学者なのでしょう。


実際、この紛鉱採集器なるものは効力がないことが分かり、被害民と古河の新たな交渉が始められましたが、その記録も残っています。

何のための河川調査か・12

河川工学の専門家で、田中正造の言動をかなり無批判に受け入れている学者がいます。


それは、前新潟大学教授・大熊孝で、彼の著書『利根川治水の変遷と水害』(1981年)を見ると、その入れ込みぶりがよく分かります。


昭和17(1942)年生まれの大熊は、東京大学工学部土木工学科を卒業したあと大学院の博士課程を修了し、新潟大学に奉職して助教授・教授へと進んで定年退職していますが、今年(2008年)の3月1日にあった最終講義で、彼は次のように話しています。


「<利根川治水の変遷と水害>は、私のドクター論文です。これを書いて7年後に出版しましたが、これから20年経ってもまだ再版されているのは、まだ死んでいない本だと思う」


この本に相当愛着があるようですが、正造の吹いた法螺を全く疑わずに本当だと信じ、読者に嘘を教えていることから考えると、何とも無責任な学者だという感想を抱きます。


田中正造を信用して彼が流した偽情報を、この本を引用しながら検証していきましょう。


明治13年には、栃木県令(知事)藤川為親から渡良瀬川の魚の販売ならびにその食用を厳禁する通達が発せられる


しかし、これは田中正造がでっち上げた作り話で、大熊教授がこの本を出版した時には、この話が正造の虚言だったということが、すでに関係者の間ではよく知られていました。


そうでなくても、明治13年には、足尾銅山では銅の鉱脈が見つかっておらず、本格的な操業の段階にまで至っていないので、公害が発生するはずがありません。


足尾鉱毒事件の入門書を読んでも、新聞のニュースで明治17年の10月ごろから公害の記事が始まったことになっています。


学者でありながら、こういう基本的なことさえ調べずに、この著者は正造のついた嘘にだまされているわけです。

何のための河川調査か・11


渡良瀬川改修計画にへの田中正造の反対理由は、前述したように、明治31年に関宿に鉄筋コンクリートの堤防を作って川幅を狭めたために、洪水が逆流することになったわけだから、この部分を拡げる以外に対策がない、というものでした。


しかし、正造のこの理論が科学的に正しいという根拠は何もありません。

洪水のメカニズムは複雑で、一人の人間が頭で考えられるほど単純ではないからです。

洪水が起こる時には、必ず逆流があるはずです。上流からはさまざまなものが流れてきますから、それが障害になってどこかで流れが滞り、当然のことながら逆流は起こります。

関宿の堤防もその原因になったでしょうが、これによってどの程度の逆流が起こったかも計測は不可能です。


明治41年3月25日、政府は、正造の友人である弁護士の花井卓蔵が提出した「利根川流域の被害に関する質問」(全30項目)に対し、具体的な回答書を提出しました。

それによれば、利根川、渡良瀬川、思川の明治39年と40年8月の最高水位などのデータを示しながら、正造の指摘する逆流に関して、例えば次のように説明しています。


「栗橋鉄橋柱脚の厚さは、総計13間4尺で、同所の川幅は257間1尺2寸である」(正造は、逆流原因として関宿の堤防と同時に東北本線の栗橋鉄橋を挙げていた)


「利根川筋においては、特に流水を阻害する事実は認められない」「利根川の洪水時において渡良瀬川の逆流は約2里、思川の逆流は約1里である」


「下都賀郡寒川村付近の浸水は、主として思川筋上流一部の無堤地から来るもので、川辺村の東端より来る逆流の結果ではない」


「4県の被害は逆流にのみ起因するものではない」


とても丁寧で分かりやすい説明ですが、これと比較すれば、正造の発言がいかに口からでまかせで、説得力を欠いたものかがよく分かるではありませんか。

何のための河川調査か・10

学説は、「明治43年8月の大洪水以降、正造の河川調査はさらに本格化した」ことになっています。


しかし、彼の治水論は終始変わっていません。

結論は「人工的に狭めてしまった千葉県の関宿の部分を広くせよ」というもので、河川調査をする前も後も同じ台詞を繰り返しているだけなのです。


明治41年9月19日付けの内務大臣宛の訴願には、次のようにあります。


「利根の水底は、上流より流下する自然の土砂、徳川時代において、僅々年に4,5分ずつ埋設するにすぎざるも、250年間には1丈余の埋設を来たす。これまことに自然の致す所」


「今や然らず、河底1年に2尺5寸内外ずつ土砂をもって埋む。したがって、堤防もまた2尺5寸を増築せざるを得ず。(したがって)今より250年の以後には(埋設は)驚くべし62丈5尺となり、堤防もこれに伴いて62丈余の増築をなさざるべからざるに至らん」


「関宿を開放して旧に復し、下流に適当なる疎水工事をなし、水勢を海湾に注ぐべし」


2尺5寸というデータはどのようにして調べたのでしょう。彼がいかに出まかせの数字を挙げているかがこの文章でよく分かりますが、その1年後、明治42年9月12日に栃木県会に当てた陳情書にも、


「関宿の河口を開けば治水問題の大部分は解決される」、「関宿を開くは5県下200余ケ村を死より生に甦らせ、かつ堤防増築は不要となり、年々の工費に余裕を来たす」


などと、同じことを繰り返しているに過ぎません。大規模な河川調査をしても結論は同じでした。

明治45年1月23日の日記には、


「関宿開放せば、利根、渡良瀬の改修は殆んど少し」


と書いてありますし、同年5月23日の日記にも、


「渡良瀬川沿岸の水害は関宿石堤工事の妨害なり。しかして沿岸の目は関宿に注がずして、藤岡町(旧谷中村)北方切断に熱中す。至愚の至愚なるものなり」


と記しています。結論が決まっているのに、なんで何年間も河川調査をする必要があったのでしょう。

正造は初めから不必要なことをしていたにすぎないのです。

何のための河川調査か・9

ところで、単なる素人に過ぎない正造が、他に何の仕事もせず、河川調査なる名目で数年間も各地を渡り歩くきっかけになったその洪水は、実は渡良瀬川周辺だけではなく、日本全国に及ぶ大規模なものでした。


全集第12巻の解題は、朝日新聞を資料に使って次のように記しています。


「明治43年8月の大洪水は、8月上旬から東日本一帯に台風の余波による大雨が続き、関東各地で河川の氾濫や山崩れ、堤防決壊が相次ぎ、利根川、渡良瀬川、などに天明以来といわれる大水害をもたらした」


「それは全国的にも、東海、中信越、関東、東北の1府17県におよび、死者1048人、行方不明383人、家屋全半壊4817戸、同流失3856戸、浸水家屋44万3210戸、堤防決壊1922箇所、橋梁流落1578箇所、山岳崩壊901箇所、浸水面積27万9472町歩に達した」


いったい、これだけ大規模な災害をもたらした大自然の猛威なのに、河川・治水対策の欠陥がどこにあったかという超難問題を、素人がたった一人でどうやって調べることが出来るのでしょう。


専門家が何百人で調べても不可能ですから、出来るはずはありません。

その発言を読めばすぐ分かりますが、正造はそもそも、科学的な知識も判断力も分析力も全くない反理科系人間です。

にもかかわらず、分かったつもりになっているので始末が悪いのです。


しかも、文科系の学者たちは、正造を正義の味方と思い込み、彼の言うことを頭から信じてしまうので、もっと始末が悪いのです。

何のための河川調査か・8

沿岸4県の地方議会の決議を受けて、渡良瀬川改修案は帝国議会に上程されます(明治43年3月9日)。

正造は徹底的な陳情・請願運動を展開し、知人の代議士に頼んで議題にしてもらおうと図りました。

しかし、誰一人協力してくれる人がありませんでした。


結局議会運動も失敗に終り、渡良瀬川改修計画案は、3月23日に第26帝国議会で可決されました。

このような過程から見ると、正造の言動には相当に無理があることがわかります。


にもかかわらず、正造は、この年の8月に起こった大洪水を契機に、以前より更に徹底した河川調査に歩き始めるのです。

全集の解説によれば、彼は、利根川、渡良瀬川、鬼怒川、那珂川、荒川などの河川を、その枝川、細流まで約2年にわたって綿密な現地調査を実行しました。


その調査とは、過去の洪水や増水と最近のそれとの比較だったということです。

そして、明治44年以降、「河川巡視踏査はいっそう本格的になり、詳細な調査記録が残っている」と、全集・第18巻の「解題」には書いてあります。


しかし、確かめてみたところ、「詳細な調査記録」などではなく、現地の農民からの単なる聞き書きにすぎませんでした。洪水時の水位、出水の模様、堤防の破壊状況、橋梁が流れた様子などを聞いてまわっていますが、データを分析する専門的知識がない正造に、客観的な結論が得られるはずなどありません。


その記録を認めてくれる機関もありません。当然のことながら、当時は正造の治水論など全く無視されました。

ところが、1960年あたりからは、正造のほとんど意味のない当時の行為が極めて高く評価されるのです。

全集第18巻の「解題」には、次のように書かれています。


「これ(この調査)によって田中は、自己の実証的治水論の正しさに自信を深め、具体的な治水策を提唱することができた」


「提唱することができた」としても、無視されたのでは意味がありません。しかし、学者や研究者は、まるで大きな価値があったかのように解説しているわけです。

何のための河川調査か・7

正造はあくまでも渡良瀬川改修計画に反対で、死ぬまで徹底的にその態度を変えませんでした。


しかし、この川の沿岸に生活する農民など住民の大多数は、改修を積極的に支持しました。
ですから沿岸4県の地方議会は、群馬県の明治42年9月10日を始めとして、栃木県(同年9月27日)、茨城県(同年11月28日)、埼玉県(明治43年2月9日)という順序で渡良瀬川改修諮問案を成立させました。
住民側が渡良瀬川の改修をどれほど切望していたかを示す証拠を紹介しましょう。


木塚貞治議員は、栃木県会で次のように演説しています。


「この機会を逸したならば・・・我々はいつの時を待ってこの国難を防ぐことが出来ましょうか。・・・今日まで貴・衆両院、内務省、内閣、1年として請願を出さない年はないのである。・・・我々両沿岸の人民が困難をしておりますのも20年来のことで、・・・実に5000町歩にわたるくらいで、・・・この幾多の土地を復活し、多数の被害民を助けるためには、一小部分の犠牲は実に涙をのんで・・・」(明治42年9月10日)


正造と反対の立場をとったのは沿岸4県の地方議会だけではありません。
足尾銅山の公害反対運動で正造と一心同体だった活動家もまた、改修案を支持しました。
そのため、正造は彼らのことを「狂った」と言いつつ哀れんでいます。逸見斧吉・木下尚江・柴田三郎(都新聞の記者)に宛てて正造は、次の内容のハガキを出しています(明治42年9月16日)。


「野口春蔵氏、大出喜平氏を始め、従来の同志2郡狂せり。しかれども真理にあらず。ただし、この人といえども、多年耕作収入乏しく貧困の人民を救うで無理もなし。これ人なり。未だ神に至らざるのみ。御あわれみ相願いたく」


「彼らは神様でなく人間なので真理は理解できないのだ」というわけですが、正造は、あくまで「自分は絶対的に正しい」と思い込んでいたのです。

何のための河川調査か・6

明治43年8月の大洪水以来頻繁に河川調査を始めたと書きましたが、正造はそれ以前に彼独自の治水論を持っていて、それを渡良瀬川改修計画反対の根拠にしていました。


ですから、改めて河川調査をする必要などないはずなのです。実際、政府の治水計画に反対する彼の理論的根拠は、終始変わらなかったのです。


彼の理論とは、渡良瀬川の洪水の原因は、この川自身の水勢にあるのではなく、その下流の利根川からの逆流にある、というものでした。


明治41年12月14日、「利根川治水の統一に関する意見書」に、すでに彼は次のように書いています。


「江戸川の河口、千葉県関宿においてセメント工事をもって堰堤を築き、河口を狭窄にして流水を妨害したるがために、利根川の洪水は丈余の水層を湛えるに至る。かつ、関宿以西の権現堂の阻害工事および栗橋の鉄橋・柱脚の障害などによって、思川、渡良瀬川に逆流し、栃木県南部の水量は普通洪水の上になお6,7尺を高め、沿岸村落の堤防はあるいは破壊し、あるいは河伯の暴逆をたくましうするは近年の変状なり」