足尾鉱毒事件自由討論会 -9ページ目

正造の晩年の孤立・5

明治の末年ごろからは、島田宗三も時々正造に抵抗する姿勢を表明し、裁判に対する疑問も提出しています。
明治45年6月15日に正造に宛てた宗三の手紙を引用しましょう。


「いよいよ約束に反するの止むなきに到る。翁よ、諒せよ。予が何故に他人の事にまで手を出す資格ありや。予は近日神を信じ神に従わんと欲せしなり。しかれども事実と実行は決して然らざるなり。決して然らざるなり。ことごとく虚偽のみ。いわゆる偽善のみ」


「予の今日の境遇にして他へ手を出せば出すほどに偽を嵩むるのみ。かえって罪悪を積むのみ。予に一文の銭なし。銭なきもの、いかにして他を顧みることを得んや。予に一点の能なし。能無きもの、いかにして功を奏することを得んや。しかして、予には何ものもあらざるなり。あるものは偽と虚のみ」


「数日月にわたり、虚をもって積みたる裁判も今や第1審決してすでに第2審に移れり。・・・彼の役所や、常に強盗、詐欺、殺人、姦淫等を扱う所にして、決して神や仏の争う所にあらざるなり。故に正義も泥棒も同一視せられ、公賊の判たりとも四角の朱印なければ一文の価値なきなり。彼の所や、公賊等の審判所なり。正義の叫ぶ所にはあらざるなり」


当時正造は、島田宗三等の若者に様々なお説教をくりかえしていたので、宗三は「私はそんな立派な人間ではないので、期待しないでほしい」と反発したのだと思われます。


これより2ヵ月半前に正造は、島田たち18人に対し次の手紙を出しています(同年4月2日)。


「水防妨害を憂うるなかれよ。谷中人民は天に尽すものなり。天に尽すものは必ず天より食を賜うなり。その賜うや汝の働きよりも大なり。たとえ小善を働くとも、天の報酬は小ならずして必ず大なり。憂うなかれ。信じて疑うなかれ。正造」


正造の晩年の孤立・4

谷中問題にかかわる裁判では、次のような不可解な話もあります。


正造の最も忠実な弟子だった谷中村の若い農民・島田宗三が、東京の逸見斧吉宅に滞在する正造に「我々に相談なく和解することになったのはどうしてですか」と手紙で質問しました。


その8日後、その回答が正造からでなく逸見斧吉から宗三に届きます。しかも、内容は「和解するほかないでしょう」というものでした。
2通の手紙を紹介します。


明治44年7月7日、島田宗三から逸見方の正造へ。


「今日突然裁判所から封書が来ました。聞いてみれば、なんと原告安部磯雄他30名、被告栃木県に対する土地収用補償金裁決不服事件につき、来る7月12日午前9時を和解期日と定めたく当裁判所へ出頭せらるべしと。和解、これいかなる故か。何者が申し込んだのか。不明です。われら愚民どうしたらいいのか。これに対する善後策、至急ご指導あらんこと、切に願いあげます」(文章は現代文に直した)


明治44年7月15日、逸見斧吉から宗三へ。


「裁判のこと。村の方々のご決議は拝承しました。和解に反対するということはむしろ当然でしょうが、しからば継続進行のほかありませぬかしら。進行するとせばその方法によい工夫がありますかしら。私が思いますには、このさい県を相手にすることを止めて、ただ独自一個を開拓するという工夫に移られることが肝要ではありますまいか、などと心にくり返しているのです。まあ、田中翁のご意見もうかがってみたいものです」


「至急ご指導あらんことを」とお願いする島田宗三に対して、正造は、裁判そのものに反対する逸見斧吉に平然と回答させたわけです。

正造の晩年の孤立・3

逸見斧吉は、正造が谷中問題で訴訟を起こしたことにも反対を表明しました。


彼は応援する立場の人間として、付き合いで原告に名を連ねていたようですが、明治43年7月3日に正造に宛てた手紙では、次のように「取り下げてほしい」と頼んでいます。しかしまた、気を使ってお金を送っていることに、逸見の人間性がよく現われています。


「裁判事件、何かとご苦心のご様子。お気の毒千万に存じ上げ候。私共には僭越の申し分に候えども、裁判の存在はむしろ谷中問題の汚辱となりしように心得られ、名実ともに無効の煩労にはあらずやと思われ候。原告者の一人として名義を列する私に候えば、如何にしてでもこの訴訟の取り下げをしていただきたく御座候。・・・別券お納め下されたく候。心ばかりの供養に御座候」


逸見はまた、谷中問題で県知事に請願書を提出することにも、正造に反対しています(明治45年6月7日付けの手紙)。


「谷中事件訴訟問題につき、控訴はせぬ代わりに県知事へ宛て最後の請願書提出し候よう申し合わせに従い、その文案を試みいたし候えどもまとまらず・・・私にはこの請願書差し出すこと叶わぬ事と相成り申し候間、何卒この段しかるべく御高察願いあげ奉り候」


「そもそも私自身谷中問題に飛び込んだ動機のいかがわしさを思うては、為政当局の失態をとがむるの資格なき事が思われてなり申さず、何もかも知りての後ならでは手も足も出申さず候」


逸見斧吉は、正造と違って、自分は善人で谷中問題で反対の立場に立つ人々は悪人だといった単純さは持っていなかったのだと思います。


正造の晩年の孤立・2

同じ年の明治41年の逸見斧吉の手紙に、正造の活動のあり方にクレイムをつけた1通があります。

前回に紹介したものと同じく、「谷中の農民に対しては精神的な救済しか出来ませんよ」と正造にアドバイスした内容ですが、つまりは「あなたの今していることは無駄ですよ」と、やんわり反論しているわけです。


古河町の田中屋旅館に滞在する正造に宛てた12月3日付けの手紙です。


「先月14日、宇都宮へ宛てご左右相伺い以来半月、またまたご無沙汰相重ね申し候。その間御書(お手紙)は10数通頂戴いたし候度毎にただ空しく誦過して何の為すことなしに終わる。小生等の不甲斐なさを悔み申し候」


「政治の罪悪=権力は必ず腐敗を伴うの実証として、鉱毒問題、谷中問題ほど具体的なるは無きが故に、この問題を提げて神の前に全人類の悔改を要求することが、覚者の神より蒙るべき使命のすべてには候まじくか。・・・果たしてしからば、老台の期して以って真職命としたまうべきは、問題の有形的救済にあらずして精神的解決にあり。すなわち、憐れむべき無辜をして真に神の民たらしむるにあらずやと存じ申し候」


「<破憲の事、無法律の事、すべて詐欺のほか何事もなし>と仰せられ候につけても、この事実は単に谷中問題、治水問題の事実にあらずして権力の存るところ必ず伴うべき事実なりと存じ候が故に、一切人類の悲惨を救わんは、ただただ人の<権力欲求>の毒魔を亡ぼすに存すべしと信ぜられ候」


「社会主義、無政府主義があるいは実地に行わるる時もまいり申すべくか。なれども、人の心にこの権力欲求の黒い影の存在する限りは、社会主義、無政府主義は人類に対する第2の抑圧となり了すべく予想いたされ候えば、まして現存の政権によりて得べき外形の救済が、やがていかなる結果を生じ申しべしや予想に難からじと存ぜられ候」

正造の晩年の孤立・1

正造が最後まで頼りにしていた人物は、「お金に困っている」といえば文句を言わずに融通してくれる逸見斧吉でした。


食品工業の世界では当時の大企業だった「逸見山陽堂」の社長で、社会主義者を応援していた変り種の金持ちです。


晩年の正造は、斧吉に宛てて頻繁に手紙を書いていますが、まるで日記をそのまま手紙にしたようになんでも報告しています。


それに対して、斧吉は時々返事を書いていますが、気を使いながらも、正造の言うことには納得がいかないという意志表示がしばしば顔を見せます。
そうした例を少し紹介していきましょう。


「神は愛なりとはキリストによりて顕われたる唯一の真理なりと感じ申し候。この愛、小生の中にも宿りおるに候えども、罪なる肉体にしばられて自ら殺しつつあるに候。まず大懺悔あらざるべからざると心得候。肉は益なしと信ずる心をもって肉に仕うる今の状態から改めずしては万事ダメと存じ候」(明治41年7月1日)


「先日ご恵投下さりし御書(手紙)、封状3通、葉書7通拝受致し候。・・・<宗教心の厚きもの普通人に同情少し云々>の御書、懸念に絶えず候。真に宗教心の厚きものは、普通、人に同情深かるべき理に候えば、御書は、好んで宗教を云々するもの、かえって同情に乏しとの風刺に候わんかと存じ候」


「思うに奸悪なる世態は人が意識して改革し得るものにはあらざるか。ただ真理の証明者として虐げられたる者に道を伝え、彼らのために祈るより他に、神におのれを委ねたる者の為し得る道は無きに候まじくか。かく考える時、いかにも、谷中問題に関係したる小生自身の傲慢なる動機を恥ずるのほかこれ無き候。小生は、ぜひとも谷中の人々に真に神を知らんとする熱心の湧き出でんことを祈る他なしと存じ候」(明治41年8月6日)

何のための河川調査か・20

正造のいうことを大概は信じている大熊孝ですが、さすがは科学者なので、遊水池の効果についてだけは信じませんでした。


遊水池について正造は、実は次のようにめちゃくちゃな主張をしているのです。
明治42年9月12日から24日までになされた、栃木県会議長に宛てた7通の「渡良瀬川改修反対陳情書」には、次のように書かれています。


「旧渡良瀬川は藤岡町より赤麻沼に切り落とすといえども、海老瀬村を迂回して渡良瀬川の水量は減ずるも、為に利根川逆流は水勢大いに加わり、一方は下都賀郡寒川村以北に向かって更に水量増加の怖れあり。かかる水勢は東北西方に向かってどこまで波及すべきや未だ知るべからざるなり」


このように書かれると、単純な人はつい信じてしまうので、正造が嘘をついているなどと誰も言わないわけです。


田中正造という人は、自分の政治的信条のためならどんな嘘でもつきます。
「谷中の遊水池は鉱毒の沈澱池だ」とも言い続けました。


例えば、明治44年11月3日の糸井他6人宛ての手紙には、次のように書きました。


「実に谷中問題は鉱毒の沈澱池問題なり。その名渡良瀬川改修にして治水の事業なりしも、その実用は沈澱池の外ならずして、皆足尾銅山の御用なり。谷中一か村のごとく見せて、その実1府5県沿岸滅亡の悪問題なり」


もし、その当時の渡良瀬川に鉱毒が流れていたとしたら、それまでの大雨ごとに洪水に見舞われていた谷中村はその被害にあっていなければなりません。
しかし、谷中村の島田宗三が東京の逸見斧吉に宛てた次の2通の手紙は、谷中の畑が鉱毒に全く侵されていない事実を示しているのです。


「明治40年の春は、同志としてたがいに相談するものは19名でしたが、今は31戸に増えました。谷中といえば世間の人からはすでに滅びたように思われていますが、現に100戸以上住んでいるのです。谷中は復活したのです」(明治44年11月22日付け)


「本年はどこの家でも半年食う分位のものは穫りました。私の家では大麦、裸麦、小麦などで40俵あまり穫りました。まず一人前の百姓の分です」(明治45年7月18日付け)


ちょっと調べれば正造の嘘はわかるのに、学者たちは正造を偉人だと思い込んでいるので、つい信じてしまうようなのです。


何のための河川調査か・19

河川工学者・大熊孝は、東大の大学院時代に書いたというこの専門書で、更にまた、何の根拠も証明もなしに、鉱毒問題が利根川の治水方針を大転換させたと主張しています。


「渡良瀬遊水池の設置は、渡良瀬川改修工事による従来の氾濫遊水地域の減少および利根川改修工事による渡良瀬川への逆流の減少によって利根川洪水流量が増大することに対処した意義を有するばかりでなく、鉱毒物質の最終的沈澱池の意義もあったものと思われる」


「渡良瀬遊水池は鉱毒物質の沈澱池だ」といい続けたのは田中正造ですが、この遊水池から鉱毒物質が検出されたという事実がないにもかかわらず、大熊は「思われる」という言葉を使って正造の嘘を肯定しているわけです。
大熊はさらに、以下のように、意味もなく同じような主張しつづけます。


「かりに、鉱毒問題が発生していなければ、利根川の計画流量はもともと低い値であり上流の氾濫を容認したものであること、また、下利根川の遊水池を締切る方針がとられていることなどから、明治43年大洪水以前に渡良瀬遊水池案が出てくるようには思われない」


「また、鉱毒問題が発生していなければ、江戸川拡大方針が当初から採用され、利根川治水体系は現状とは大きく変わっていたようにも思われる」


以上のような主張は科学的根拠は全くありませんが、渡良瀬遊水池の効果については、この学者は、データに基づいているので田中正造とは正反対のことを主張しているのです。この部分を引用します。


「次に、渡良瀬遊水池の効果を概観しておこう。川俣(渡良瀬川と利根川の合流点の上流)と栗橋(合流点の下流)の流量を比較すると、その最大流量の大なる差がなく、渡良瀬遊水池の所期の目的を果たしていると言える。遊水池の逆流現象は栗橋、古河、藤岡の毎時水位を比較してみると、ほとんどその現象がみられない」


「この遊水池がなかったならば、渡良瀬川の合流量によって利根川洪水量が増大したであろうことは疑う余地はない」


河川工学者・大熊孝のこの結論は、社会科学系の正造の研究者たちとは全く対立します。
正造全集第4巻の「解題」に、安在邦夫は次のように書いています。


「(正造は)水量調節・治水の名のもとに遊水池を設けることは、単に不要であるばかりでなく、逆流を誘い水害を甚大ならしめるという点において全く有害無益であると主張した。この指摘は、谷中復活の正当性を治水論の立場から裏づけるものでもあった」


何のための河川調査か・18

大熊孝という学者は、少なくとも渡良瀬川に関する河川論については、すべて単なる想像で学説を立てています。

つまり、学問的手続きなしに勝手に新説を創作しています。


彼の著書『利根川治水の変遷と水害』には、次のようなことが書いてあります。


明治政府は、明治29年に河川法を制定したが、その後直ちに淀川と筑後川を政府直轄の河川とし、木曽川についても県が施工していた築堤工事を国の直轄工事に移管した。

しかしながら、利根川に関しては明治33年に始めて直轄河川に認定し、その高水防御の改修工事を始めたにすぎない。

この川は、天明3(1783)年の浅間山噴火以来水害に悩まされていたが、河川法の適用が遅れた理由が必ずしも明らかでない。


「おそらく、鉱毒問題が発生し、利根川治水方針に大きな混乱を与えたため遅れたのではないかと思われる」


「河川法の適用が遅れた理由は明らかでない」という事実を、彼は無理やり「必ずしも」という副詞で修飾し、何らの根拠もないことをごまかすために「おそらく」とか「思われる」という言葉を使って彼の学問的主張を述べています。


つまり、彼は学問を利用して、田中正造の政治的偏向思想を正当化しようと図っているわけです。


繰り返しになりますが、すでに明治30年には、鉱毒問題を解決するために、政府は鉱毒が絶対に渡良瀬川に流れ込まない方策を立て、古河鉱業にその鉱毒防止工事を命令しました。

同社が命令を忠実に実行したため、明治34年の秋には被害農地の一部は豊作になり、35年に洪水があったにもかかわらず、36年には正造も認めざるを得ないほど農地は回復し、政府も鉱毒が川に流れ込んでいないという調査結果をこの年に発表しています。


鉱毒の被害を受けた農民たちの公害反対運動も、明治33年2月に終止符を打ちました。

鉱毒問題がこうして解決しているのですから、「鉱毒問題が利根川治水方針に大きな混乱を与える」はずなどありません。

大熊孝という学者の話はあまりにも馬鹿馬鹿しいので、全くあいた口がふさがりません。

何のための河川調査か・17

千葉県の関宿で川幅を狭くした利根川の治水対策は、正造以前にすでに利根川や江戸川の沿岸住民や専門家から批難されていました。


なぜならば、逆流の心配などしなかった渡良瀬川沿岸の住民とちがって、関宿から下流の利根川や江戸川の住民は、水嵩が上がり、水圧が高まる結果破堤や洪水の危険性に直接さらされるからです。


大熊孝によれば、吉田東伍という学者は、『利根川治水論考』(明治43年)に「関宿の制水は有害にして無益なり」と述べているそうです。


江戸川拡大策の要求に対する明治政府の総理大臣・桂太郎の答弁(明治42年3月)は、極めて無責任であると批判しながら、大熊孝はこの本でまた、足尾鉱毒事件が明治政府の基本方針を決めたのだと、単なる思い込みを結論にしてしまっています。引用文をよく読んでみてください。


「利根川治水に関して明治政府がこのような暴論ともいうべき政治的発言をしなければならなかった理由は、鉱毒事件以外の何物でもないように思われる。もし、鉱毒事件が発生していなかったならば、リンドウ(オランダの技術者で、明治6年に江戸川拡大論を唱えていた)の治水方針ないしは江戸川主流論のごとき大胆な利根川治水策が取り得たような気がしてならない。もしこれが事実であるならば、鉱毒事件は利根川治水方針を転換させたという重要な意義を持つこととなる」


大熊は何の根拠もなく「鉱毒事件が明治政府の方針を決めた」と結論づけ、事件がなければ対策は違っていた「気がしてならない」と仮定した上で、その仮定が「事実であるならば」ともう一つ仮定を重ねることによって、鉱毒事件は「重要な意義を持つこととなる」と、単なる願望を無理やり学説に仕立てているわけです。


いったいこの文のどこに、学問的な手続きがなされているでしょうか。あきれてものが言えません。


何のための河川調査か・16

田中正造は、政府が千葉県関宿の川幅を9間強にまで狭める「流水妨害工事」をほどこしたので、豪雨のたびに利根川が逆流して上流の渡良瀬川に洪水をもたらしている、それは、明治29年の洪水で足尾銅山の鉱毒が関宿の下流の江戸川にまで流れ込んだので、それを防止するのが目的だった、と主張しているわけです。


しかし、これはあまりにもお粗末な空理空論で、何の根拠もない作り話にほかなりません。豪雨で上流から運ばれてきたさまざまなものが流れを止め、逆流することはどの川でもあるでしょう。しかし、それはあくまでも一時的に起こることで、渡良瀬川の沿岸を広い範囲まで浸水しつづけるほど大規模になるとは、物理的に考えられません。関宿の川幅は9間強あるのです。


しかも、関宿から10数キロ上流までは利根川本流で、渡良瀬川はそこから分かれる上流ですから、そんなに先まで逆流をもたらすことなどあり得ません。


もし鉱毒を含む汚染水が渡良瀬川から利根川に流れ落ちて関宿に至ったら、そこがどんなに狭い川幅でもそのまま江戸川に流れ込んで東京府内に運ばれます。関宿の川幅を9間に狭めることが、どうして鉱毒から東京を守る対策になるのでしょう。何でこんなことを政府がするでしょう。あまりにも馬鹿馬鹿しい話ではありませんか。


ところが、河川工学の学者である大熊孝は、全く非科学的な正造のこの作り話をすっかり信じ込み、次のように、いかにもあいまいな文章表現で正造の治水論は正しいと解説するのです。空いた口がふさがりません。


「(関宿の工事は)東京府下に鉱毒水が氾濫することを恐れての対策であると考えることには矛盾がないように思われる」


大熊はまた、江戸川河口の行徳の塩田への「鉱毒被害の拡大をもっとも恐れたためではないか、と考えられる」ともいっていますが、明治政府は、すでに鉱毒が渡良瀬川に流れ込むのを防ぐ工事を古河鉱業に命じていました(明治30年)。


実際それ以降新たな鉱毒の流出は止まり、6年後には沿岸の農業被害はなくなっています。

明治36年6月には、政府が設置した鉱毒調査委員会が「予防工事以降は汚染物質がわずかしか流出していない」旨の調査結果を発表しています(由井正臣『田中正造』177頁)。


学者でありながら、大熊はこうした具体的事実を全く調べずに、ただただ田中正造を信じきって、彼の作り話を正しいと学術専門書に書いたというわけです。