足尾鉱毒事件自由討論会 -11ページ目

何のための河川調査か・5

正造は、「自分こそ水害の真因を知っている。世間の人はみんな間違っている」と言い続けました。
また、手紙でその実例を挙げていきます。


「今日の(水害)は天災にあらず。天災なりと誤解して原因の調査も研究もないのが今日までの結果です。今よりは進んで新しき心にてお進め下されたく候。いやしくも正造等および被害民の主唱はやや20年以前よりです。しかも世人耳を傾けずして今回の一大災いとはなれり」(明治43年9月11日、桐生町・大沢恒三郎宛)


「関東の水害は寸毫も厘も天災にあらで、ことごとくこれ皆人為人造、私利私欲、愛憎と偏頗(かたよって公平でないこと)とより来たりし悪事の大洪水にて候ことの疑いなき大事実にて候。治水は河川の上にあらず、人心の上にありです。もしそれ天災なりなぞとの迷夢の覚めざる点あらんか。万事万端無用の心配、無用の苦労に相成り候事と確信せり」(明治43年11月19日、碓井要作宛)


正造は、どんなことに対しても決定的な言い方をします。


たとえば、科学的・客観的に表現すれば、水害は天災の側面もあり人災の側面もあるというのが正確でしょうが、彼は「天災でなく人災で、人間の欲が原因だ」などと発言してしまいます。つまり、主観でしかものを言わないのです。だから大概のことは虚言になってしまいます。しかし、だまされやすい人は虚言を信用してしまうのです。

何のための河川調査か・4

正造は、治水問題に関してある種の確信を抱き、河川工学の専門家よりも自分は優れていると思い込んでいました。


だから、前回の手紙のように「内務省の専門家は全然無学なりと確信いたし候」とまで言ったわけですが、治水に関するその思想を様々な人に説教していました。

その実例を手紙で確かめてみます。


「およそ雨は昔も今も同じことなり。されど昔は雨一升降れば一升のままを海に行かしむ。今は然らず。一升の雨を三升にして流す故に、3分の2はすなわち人造の水害なり。近年山林乱伐、水源山はげ崩れて赤裸体たり。2日間に流るる雨量を1日間に流して2倍とし、また途中利根川の各所に流れを妨げ逆流せしめて3倍とす。故に雨は昔に同じきも流水は昔に3倍す」


「河川の改修とは回復の義なり。されば政府はまず渡良瀬川改修の前に早く流水妨害を除かば洪水の減ずる直に4,5尺。しかして後改修の年限を経ば成功。減水の合計はやや一丈に至らん」(明治43年8月31日、木下尚江・安部磯雄・逸見斧吉・石川三四郎宛の印刷したはがき、発送地は古河町)


もっともらしいことを言っていますが、数字に客観的な裏づけがあるわけではないし、「流水妨害を除」けば解決するといっても、現実的な対策などありませんから、正に空理空論に過ぎません。

何のための河川調査か・3

正造のいう河川調査は、その範囲をどんどん広げていったようです。今回は千葉県と栃木県から出した手紙3通と、河川工学の専門家を見下すほどの自信家振りを示す日記と手紙とを紹介します。


「今日より向こう3日間、日本南海沿岸被害視察。行徳、船橋、千葉、佐倉、印旛沼方面より、また中利根川に出るつもりにて、今夜はこの船橋にて太神宮社の前の旅亭に一泊いたしました」(明治44年8月2日付け、島田栄蔵等6人宛て)


「本日は立て川通りより御なり川の東南、江戸川の末にて千葉東葛飾郡浦安町に。これより同郡中山より乗車、成田に一泊か佐倉に一泊かと決し候。それよりアビコ線、茨城の取手町に到り一泊して、いったん東京に帰ります」(明治44年8月2日付け、逸見斧吉宛)


「正造も1昨年8月洪水当時より東京以北5カ国の河川を跋渉せり。長きは東西50里、短きも10余里にわたる。この数十の河川の大半は、余す所少なきまでに実現せり。治水のことようやくしてその大意を知れり。今は土木吏の詐りには欺かれず。今は付近数十か村内、下都賀南部を巡りて、多忙に呆れたり。手紙書くひまもなし。話するひまもなし。時下翁においてもご自愛あれ」(大正元年8月15日付け、栃木町から島田栄蔵宛)


「日本工学技師は風水の学を知らず。故に風と水とに失敗多し。彼の横浜の切り通し、大阪築港のごとき、河川工事のごとき皆失敗せり。これ、あたかも法律家にして人道を学ばざるもののごとし」(大正元年9月27日の正造の日記)


「去る41年の頃、逸見君より治水上につき左のお言葉ありき。いくら偉くても治水は内務省の専門家に及ぶまいと。当時正造も貴君の説に服せり。しかるに昨今に至りてみれば、内務省の専門家は全然無学なりと確信いたし候」(大正2年1月25日付け、逸見斧吉宛)


「手紙書くひまもなし」と書きながら、彼は前日(14日)には7通、当日に2通手紙を出しています。しかも相手が求めてもいない内容のものばかりです。河川工学の専門家を馬鹿にしていますが、それは彼がそう夢想しただけで、第三者が評価したわけではありません。

何のための河川調査か・2

河川調査で忙しいという手紙を、更に紹介していきます。


「不肖も毎日毎日山を越し、谷を下り、諸河川水源(渡良瀬、思、巴波、永野、秋山その他)再三の調べにて候。今日は深く山に入り、水源についての調査にて候。今日は雪降り、谷の流れも氷となりて、寒さは強く候。しかれども、今の世の人心の冷ややかなるよりは、この寒さはかえって暖かにて候」(明治44年1月20日付け、旧谷中村の島田栄蔵、川島要次郎、島田宗三、水野定吉・官次宛)


「正造も去年8月以来水の調べにて東西奔走して、一日片時もすきまなしです。それですから、たまたま谷中に帰るときは早く集まりて、いろいろのはなしを私に話して下さい。一戸一戸に巡りて聞くのは、5日も6日も7日も8日もかかりて、また一方では毎戸毎戸で食物や夜具の世話厄介あり。これもまた中々大厄介ですから、今後は集まりを早く願います。なお、老人方によろしく。父母兄上様方によろしく。弟妹様方にもよろしくよろしく」(明治44年3月23日付け、竹沢房之進他12人宛)


「一日片時もすきまなしです」とありますが、河川調査は自分が勝手に始めただけで、別に締め切りなどありません。ですから自分が勝手に忙しがっているに過ぎません。谷中村の農民に集合せよと要求するのは、ですから全く失礼な話だと言えます。


この手紙で分かるのは、正造の訪問を受けた家では食事の世話をし、お客用の寝具を用意して接待してといたという現状です。正造は実質的には乞食でありながら、元国会議員ですから階級がはるかに上流で、農民側にとっては、最大限のもてなしをしなければいけないエリートだったわけです。正造がそれに甘えていたことが、この手紙からもよく分かります。


何のための河川調査か・1

正造の行動のうちで私が一番不思議に思うのは、明治の終わり頃から、彼が河川調査と称してあちこちを飛び歩いていたことです。


そのことに使った時間やお金は膨大なはずですが、その成果というものはゼロだったということができます。彼の言うことを聞いてくれる人はこの頃ほとんどいないのですから、彼がもし調査報告書を書いたとしても、それを採用してくれるはずがないからです。


にもかかわらず、死ぬまで彼はその無意味な行動を続けていたのです。
河川工学の専門家でもないのに、まるで土木技術者でもあるかのように、正造は「今どの辺りを調べている」といった手紙を、連日のように書きまくっています。それらをまず少しずつ紹介していきます。


「一府五県水害地方を広くめぐり歩き奔走中にて候。足は弱く、銭は短く、道は泥で悪く、困ることのみです。しかれども世間見ずの我儘では害のみで益なしですから私は広く見るのです。このたびこそ谷中の人々も金玉をみがきて、きれいに光るほど金玉をみがくのですとお伝え下されたく候。谷中の人々にのみお伝え下されたくご尽力願い奉り候」(明治43年9月19日に旧谷中村の竹沢角三郎他10人に宛てたもの)


いったい、河川調査と谷中の人々と金玉とに、どんな関係があるのでしょう。わけが分からないではありませんか。


こんなことを書いて農民たちに何らかの影響を与えられると思っていたのですから、正造という人は正に、自らが言う「世間見ずの我儘」でしかなかったわけです。

気配りなしの無神経ぶり・4

あちこち転々と泊まり歩くことで、大勢の人にかけた最大の迷惑は、おそらく虱(しらみ)を撒き散らしつづけたことです。
まず『田中正造奇行談』を引用します。


「翁が島田三郎の家に泊まった時のこと、翌日、家人が翁に着せた夜具をたたんで奥へ持ち運ぼうとした。すると中から例の虱先生が這い出したので、これは大変とびっくりして、一々調べた所が、5匹も10匹も這い出した。家人は、やっと退治したあとに、主人の島田に物語ると、彼の言うのに、田中には汚くてほんとに困るよ」


正造自身が体験した告白文もあります。
親戚である足利の原田方にいる正造が、東京の逸見斧吉に宛てた明治42年1月16日付けの次の手紙です。


「1昨日以来、ところどころ虱14,5匹発見いたし、昨夜足利に来たり親族の手を借りて虱の巣窟捜索候ところ、彼は衣類の縫い目のたてよこに潜伏せり。ついに365匹生け捕り候。ずいぶん大騒ぎしました」


「さて、先ごろ2回貴家に参上、第1回の頃より下腹のあたりがかゆく候につき、多分夜具および衣類に今頃多くの悪魔を繁殖いたさせたりと存じ候間、右大至急お届け申し上げ候間、早々ご征伐のほどを奉り願い候」


今はあまり見かけなくなりましたが、昔は、不潔にしておくとしばしば虱が身体中にたかって、痒くて気持ちが悪くて、容易なことでは退治が出来ませんでした。


たぶん、あまり風呂にも入らず、いつも不潔だったに違いない正造は、絶えず虱を飼っていたでしょうから、彼を泊めたどこの家でも大変な迷惑をこうむったことでしょう。「早々ご征伐のほどを」といわれても、殺虫剤がなかった時代に、虱を征伐することなど、簡単にできるはずはないのです。その点でも正造は非常識です。

気配りなしの無神経ぶり・3

岩崎勝三郎の『田中正造奇行談』には、次のエピソードも載っています。


これもまた、彼が泥棒と同じことをしているのに、「全く無邪気な男だ」と感想を書いているに過ぎません。
他人のものをただで持ってきて、それを人にあげて自分の評判をよくするために利用しているわけです。


「翁は思いの外刀剣の鑑定に長じているそうだが、・・・どこに行っても自分の好きな書画骨董があるとたまらない。すぐに<これは俺がもらっていく>と言って先方が承知しようがしまいがそんなことは頓着せず、引っかついで持っていってしまう」


「さて、それをどうするかといえば、例の平民クラブや鉱毒事務所などへ持っていって、戸棚の中へぶち込んでおくと、しばらく経って忘れてしまう。すると、たまたま知友が来て、例の戸棚を開けてみると、立派な書画骨董が5本も10本も入っているので、しめたとばかりに、どうか1本くれまいかと翁に談じこむと、翁は以前のことは忘れてしまうのか、どれでも持っていけ、という塩梅であるからたまらない、クラブへ行く者は誰も彼もすぐに例の戸棚を開けてみるという話であるが、この点より見たなら、翁は全く無邪気な男だ」

気配りなしの無神経ぶり・2

これも『田中正造奇行談』にある話です。


「翁がかつて肥塚龍の邸内に住んでおった時の話であるが、その当時は2,3人の書生を養って、一緒に自炊生活をしていた。すると、初めのうちは毎日薪や炭は外から買ってきたけれども、しまいには面倒くさくなったものだから、今度は邸内の壁板を折りくじってきては、それをこまかくして燃やしておった」


「すると家主の肥塚が、知らずに邸内を回って歩くと、壁のところどころに穴が開いているので、どうしたのかと思って注意していると、翁が例によってたきぎの材料を取りに出かけたので、初めてそれを分かった。さあ大変だとすぐに翁の所へ駆けつけて言うのに、たきぎはいくらでもやるから、それだけは許してくれろ」


正造のしている行為のレベルがあまりにも低いので、唖然としてしまいますが、これを単なる奇行として片付けている著者岩崎勝三郎の無神経振りにも驚きます。泥棒のようなことをしているのに、結局、彼を公害反対運動の英雄として祭り上げているのですから。

気配りなしの無神経ぶり・1

田中正造が宿泊と食事を求めて次々と知人の家を回って歩いた事実を、皆さんはおそらく、これでかなりの程度理解できただろうと思います。


ところで彼は、当然その家に迷惑をかけるこうした行為をしながらも、さらに平気で、普通の人には出来ないような失礼を繰り返していました。


岩崎勝三郎がまとめた『田中正造奇行談』(明治35年)にあるエピソードをいくつか紹介していきましょう。


「先年、翁(正造)は被害地の各村を回って、帰途影沢某の家へ行ったことがあるが、その時翁は雨茣蓙に草鞋がけという出で立ちで、裏口からつかつかと奥座敷に入ったが、そのまま横になり、腕枕で昼寝を決め込んでしまった」


「家人はそんな事とは夢にも知らなかったが、しばらくたってこれを発見したから何者かと行ってみると、はからずも田中翁であることが分かった。翁が家人に向かって言うのに、あまり駆け走って疲れたゆえ、裏の方から失礼したと、挨拶がすむとまたも昼寝をつづけたとは、いかにも頓着しない男である」

金銭感覚の異常性・50

田中正造は、10年以上も無収入のまま、働くことをせずに生活費をすべて他人に頼るという、異常な生き方をしていたわけですが、普通の人ならそういう生き方はまずいと思うのに、彼は、それでも「世間の人は自分にお金をくれたがらない」ことを不思議に思い、しかしそれは、神様がそうされているのだと悟って、反省することにしたというのです。この感覚を皆さんはどう思われますか。


明治43年8月23日付けの碓井要作宛の手紙が、この実体をよく物語っていますので紹介します。


「人を救うもの、かえって人に助けらるる点あり。しかれども笑うなかれ。天は我に食を賜うの厚き甚だ多くして、分に過ぎたり。ただ天我に金品を賜うの乏しき事、また分に及ばずして正造常に窮するところなり」


「これを案ずるに、予正造は金品に関係なきをもって予の業とせよとの教えたるを悟れり。今はこれを悟れり。・・・金と道とは併行せざる所以、まことによく天は教えて、また我に金品をもって給せず。ここに安心立命の道自然に備われり」


「よりて予は金品に乏しきを憂えず、厭わざるなり。天の賜うところのものを受けて天の命に働かんとするにあるのみ」


この手紙から、彼の突然の訪問を受けた人々は、正造にお金をくれることはあまりしなかった代わりに、多すぎるほど食事を出していたことがよく分かります。もちろん、元国会議員に対しては、一番いい寝室に暖かい蒲団を敷いて寝てもらったに違いありません。