何のための河川調査か・1
正造の行動のうちで私が一番不思議に思うのは、明治の終わり頃から、彼が河川調査と称してあちこちを飛び歩いていたことです。
そのことに使った時間やお金は膨大なはずですが、その成果というものはゼロだったということができます。彼の言うことを聞いてくれる人はこの頃ほとんどいないのですから、彼がもし調査報告書を書いたとしても、それを採用してくれるはずがないからです。
にもかかわらず、死ぬまで彼はその無意味な行動を続けていたのです。
河川工学の専門家でもないのに、まるで土木技術者でもあるかのように、正造は「今どの辺りを調べている」といった手紙を、連日のように書きまくっています。それらをまず少しずつ紹介していきます。
「一府五県水害地方を広くめぐり歩き奔走中にて候。足は弱く、銭は短く、道は泥で悪く、困ることのみです。しかれども世間見ずの我儘では害のみで益なしですから私は広く見るのです。このたびこそ谷中の人々も金玉をみがきて、きれいに光るほど金玉をみがくのですとお伝え下されたく候。谷中の人々にのみお伝え下されたくご尽力願い奉り候」(明治43年9月19日に旧谷中村の竹沢角三郎他10人に宛てたもの)
いったい、河川調査と谷中の人々と金玉とに、どんな関係があるのでしょう。わけが分からないではありませんか。
こんなことを書いて農民たちに何らかの影響を与えられると思っていたのですから、正造という人は正に、自らが言う「世間見ずの我儘」でしかなかったわけです。