何のための河川調査か・3 | 足尾鉱毒事件自由討論会

何のための河川調査か・3

正造のいう河川調査は、その範囲をどんどん広げていったようです。今回は千葉県と栃木県から出した手紙3通と、河川工学の専門家を見下すほどの自信家振りを示す日記と手紙とを紹介します。


「今日より向こう3日間、日本南海沿岸被害視察。行徳、船橋、千葉、佐倉、印旛沼方面より、また中利根川に出るつもりにて、今夜はこの船橋にて太神宮社の前の旅亭に一泊いたしました」(明治44年8月2日付け、島田栄蔵等6人宛て)


「本日は立て川通りより御なり川の東南、江戸川の末にて千葉東葛飾郡浦安町に。これより同郡中山より乗車、成田に一泊か佐倉に一泊かと決し候。それよりアビコ線、茨城の取手町に到り一泊して、いったん東京に帰ります」(明治44年8月2日付け、逸見斧吉宛)


「正造も1昨年8月洪水当時より東京以北5カ国の河川を跋渉せり。長きは東西50里、短きも10余里にわたる。この数十の河川の大半は、余す所少なきまでに実現せり。治水のことようやくしてその大意を知れり。今は土木吏の詐りには欺かれず。今は付近数十か村内、下都賀南部を巡りて、多忙に呆れたり。手紙書くひまもなし。話するひまもなし。時下翁においてもご自愛あれ」(大正元年8月15日付け、栃木町から島田栄蔵宛)


「日本工学技師は風水の学を知らず。故に風と水とに失敗多し。彼の横浜の切り通し、大阪築港のごとき、河川工事のごとき皆失敗せり。これ、あたかも法律家にして人道を学ばざるもののごとし」(大正元年9月27日の正造の日記)


「去る41年の頃、逸見君より治水上につき左のお言葉ありき。いくら偉くても治水は内務省の専門家に及ぶまいと。当時正造も貴君の説に服せり。しかるに昨今に至りてみれば、内務省の専門家は全然無学なりと確信いたし候」(大正2年1月25日付け、逸見斧吉宛)


「手紙書くひまもなし」と書きながら、彼は前日(14日)には7通、当日に2通手紙を出しています。しかも相手が求めてもいない内容のものばかりです。河川工学の専門家を馬鹿にしていますが、それは彼がそう夢想しただけで、第三者が評価したわけではありません。