何のための河川調査か・2 | 足尾鉱毒事件自由討論会

何のための河川調査か・2

河川調査で忙しいという手紙を、更に紹介していきます。


「不肖も毎日毎日山を越し、谷を下り、諸河川水源(渡良瀬、思、巴波、永野、秋山その他)再三の調べにて候。今日は深く山に入り、水源についての調査にて候。今日は雪降り、谷の流れも氷となりて、寒さは強く候。しかれども、今の世の人心の冷ややかなるよりは、この寒さはかえって暖かにて候」(明治44年1月20日付け、旧谷中村の島田栄蔵、川島要次郎、島田宗三、水野定吉・官次宛)


「正造も去年8月以来水の調べにて東西奔走して、一日片時もすきまなしです。それですから、たまたま谷中に帰るときは早く集まりて、いろいろのはなしを私に話して下さい。一戸一戸に巡りて聞くのは、5日も6日も7日も8日もかかりて、また一方では毎戸毎戸で食物や夜具の世話厄介あり。これもまた中々大厄介ですから、今後は集まりを早く願います。なお、老人方によろしく。父母兄上様方によろしく。弟妹様方にもよろしくよろしく」(明治44年3月23日付け、竹沢房之進他12人宛)


「一日片時もすきまなしです」とありますが、河川調査は自分が勝手に始めただけで、別に締め切りなどありません。ですから自分が勝手に忙しがっているに過ぎません。谷中村の農民に集合せよと要求するのは、ですから全く失礼な話だと言えます。


この手紙で分かるのは、正造の訪問を受けた家では食事の世話をし、お客用の寝具を用意して接待してといたという現状です。正造は実質的には乞食でありながら、元国会議員ですから階級がはるかに上流で、農民側にとっては、最大限のもてなしをしなければいけないエリートだったわけです。正造がそれに甘えていたことが、この手紙からもよく分かります。