足尾鉱毒事件自由討論会 -12ページ目

金銭感覚の異常性・49

彼の最後の年である大正2年の日記に移りますが、正月の元旦から他人の家に泊まり歩いていることがわかります。


1月1日、2日、横浜根岸婦人慈善病院の上隣、福田・石川両氏を訪うて泊す。


1月3日、芝口越中屋に投宿す。


1月6日、東京より逗子に来たり松屋に投宿す。


1月20日、友沼、教員木本寅之助氏方宿。


1月22日、野木村字野渡に昨夜泊して、野木村の田畑を買収する手続きを聞き、足尾銅山党の悪謀たるを説明し、降雪中古河町に帰る。田中屋に宿す。


このように、他人の家を回って寝と食とを恵んでもらうホームレス生活を繰り返す中で、正造はこの間の日記に次のように書くのです。


大正2年1月10日、宇都宮市停車場白木屋にて書く。予は、人の幸せを祈る者なり。人の命を長くする者なり。人を助くる者なり。世の中を清むる者なり。世を正す者なり。予は、山川を荒らさぬ、自然の者なり。河川を地勢のままにして水を自然の清きを汚さず、流れを流す者なり。


いったい、寝たり食べたりする生活の基本をすべて他人に依存しながら、「人を助くる者なり」などと、どうして言えるのでしょう。あまりにもふざけているではありませんか。

金銭感覚の異常性・48

もう少し、彼の日記を続けます。死の前年に当る大正元年の11月分からです。


11月5日、4日夜繁桂寺に泊す。本日、知事に陳情書を出す。3日夜田中弥平氏に泊す。2日は赤麻の日高文六氏方に泊す。1日は部屋村田中森之進氏に泊す。30日金半に泊す。31日、皆川村森戸金太郎氏に泊す。およそかくのごとし。


11月6日、田中弥平氏方。昨夜ここに泊す。


11月21日、海老瀬の佐藤氏方に泊す。昨夜古河町田中屋に泊す。


11月28日、東京日本橋芳町上総屋方にて飯村丈三郎氏に逢い、邑楽郡に帰り、大出氏の死を訪うて山本氏に泊す。


11月30日、昨夜大出氏に泊す。


12月5日、古河町より宇都宮に行き、翌6日帰りて藤岡の篠山にめぐりて川島氏に泊す。


12月7日、川島氏より恵下野に来り、島田氏に泊し、田名網氏に逢う。閑を得て野木に来たり、大野氏に逢うて、古河町田中助次氏に逢うて泊す。


12月17日、藤岡町川内屋に泊す。


12月18日、出京、上野の上野館に泊す。


12月19日、島田三郎氏を訪う。この夜巣鴨の巣鴨館に上野館に泊す。

12月20、21、22、23日、巣鴨館、上野館に泊す。


12月29日、本所緑町3ー20佐野屋川辺長三郎方、久々にて泊す。今日花井氏を訪うて上野館に厄介。

金銭感覚の異常性・47

明治45年7月に明治天皇が崩御されていますから、8月から大正時代に変わります。大正元年に入ってからの正造の日記を見てみましょう。


次々と他人の家を回って食事をいただき、泊めてもらっている様子が分かりますが、何の用事でその家に行ったのかについては、何も書いてありません。


8月22日、(古河の旅館)田中屋より人力車で新郷村に入り、山中栄吉、小倉佐市、小野善助氏を訪れて新久田の並木氏を訪問。不在。渡良瀬川を   西に越えて河辺村稲村広吉氏方に入り昼飯を乞う。車夫と二人分。

 
8月29日、去る24日、館林町荒井清三郎氏方の厄介となり泊す。・・・眠り覚めて小便に立ち、東西を誤り、行く所を失い隣室を呼ぶ。この家の老婆驚き起きて下女を呼ぶ。家中騒動となる。小便ほとんど洩る。


9月2日、植野村新井新次郎方に休息を許されて昼寝す。島田雄三郎氏を訪ねて小遣金3円を得て馬門に行く。


9月7日、昨夜海老瀬村の増保金蔵氏方に泊す。


10月3日、昨夜福田女史、石川三四郎両氏と宮崎女史を訪ねて泊す。2氏は帰る。


10月10日、昨日、部屋に泊す。


10月11日、昨日、古河町田中屋に泊す。


10月12日、恵下野に泊す。


10月20日、赤麻村大前山志家氏に 泊す。


10月21日、藤岡、谷中、古河町、野木に入りて夜栃木に来たり<かな半>に 泊す。


10月23日、恵下野に泊す。


車夫と二人分の昼飯を請求したり、小遣いを3円も(今の3万円ぐらい)もらったり、昼寝をするために家にあがったり、深夜に老女を起こしたうえ小便を漏らしてしまったり、何とも迷惑至極ではありませんか。


金銭感覚の異常性・46

明治45年6月、7月の正造の動静を、日記からまたメモって行きます。


6月12日、11日出京、神聖舎に泊す。12日、野木役場に到りて泊す。


6月15日、昨夜、藤岡の河内屋、今15日、赤麻に急行して船田源蔵氏に泊す。


6月21日、久保田氏にて昼、山崎氏方に泊す。


7月2日、金龍寺方出立。字悪戸日高文六氏を訪れて、中妻関口安蔵氏方に1泊し、今2日西小路田中ます子方に休む。


7月3日、夜、藤岡町鍛冶店田中弥平氏方に泊す。


7月8日、赤貧の洗うが如き心もて、無一物こそ富というなれ。田沼高沢に泊す。人を見るは神を見るより難し。


7月9日、朝、三好村蓼沼氏方を訪ね、・・・遠藤氏死去を訪うて、五月女両家を訪うて小中に泊す。


7月16日、15日夜、関口吾一郎氏を訪れて泊す。


7月20日、今日まで佐野の新里兼吉方に厄介となる。


7月24日、この7日間は、印刷屋船江氏方に出入りして、氏の多忙にじゃまして大いに困られた。 


人の家に押しかけて行って、いろいろ厄介になりながら、「無一物こそ富というなれ」と言ってのけるとは、何という無神経でしょう。


「人を見るは神を見るより難し」と言っていますが、いったいどうすれば神を見ることなど出来るのでしょう。この人の言ってることは全く訳がわかりません。


印刷屋の仕事の邪魔をして迷惑をかけたようですが、これで、相手の都合に関係なく人の家に押しかけていたことも分かります。自分でも認めているように、彼は、遠慮というものを知らない不躾な人間なのだと言えます。


金銭感覚の異常性・45

いったい、他人の家をどのように転々と訪問していたのか。日記を見れば分かると思ったので、明治の末年から少しの間、正造の日記をメモしてみました。それを並べてみましょう。


明治45年4月29日、昨日栃木県茂木氏を訪れて佐野に至り、小島氏方に泊す。
   同年5月5日、昨4日、谷中より海老瀬、藤岡に。田中弥平氏方に泊す。
   同年5月6日、木村市郎氏と共になり、海老瀬佐山の家に泊す。
   同年5月18日、前夜本郷稲村広吉氏に泊し、河辺村稲村氏を立って、三人して(島田宗三と竹沢房之助と)古河町に。わだやで昼飯ののち、板倉、雷電、板倉沼を見に行かんと材木店○○方に泊す。 
   同年5月19日、汽車で足利に至りて原田氏方に投宿。
   同年5月22日、昨日馬門大橋屋に泊し・・・・。


最後の大橋屋は旅館のようですが、その他は普通の家です。
元国会議員の偉い人が来れば、ご馳走を出して饗応し、床の間のある一番奥の部屋に、来客用の寝具を用意するでしょう。


本当は乞食のように、食べ物と寝る所を求めて行っただけでしょうが、正造を迎えた人々は、賓客と思って受け入れたはずです。


ですから、職業もお金も家族も家もなかった正造は、その家を訪問する具体的な用事がないにもかかわらず、次々と個人の家を泊まり歩いていたのだと思われます。



金銭感覚の異常性・44

田中正造の日々の動きを見ていると、あちこち転々と移動していて、本拠であるべき谷中村にはほとんど落ち着いていません。


谷中から動かない方がお金がかからないはずなのに、働かずに収入のない彼が、なぜあちこち動き回っていたのでしょう。よく考えると理由は簡単です。お金がないからこそ、人の家を訪ねて食事をおごってもらい、泊めてもらっていた、と考えられます。


このことを正直に告白した手紙があるので、紹介しましょう。
公害反対運動のリーダー的な活動家だった野口春蔵に宛てたもので、日付けは明治44年9月1日、差出人は「日本の東京より、世界的土人」となっています。


「拝啓、臨時お頼み申し上げておきます。それは小中辺の人々が何を誤解せしか、正造が村長を望むとやら、万一にもなられては大変、郡長さん困るだろうとかにて、内々反対の運動しておるとの風聞が耳のきわをかすってきていた。・・・去年以来正造がたまたま小中に行くのは、銭に困って行くので、他に用があって行ったのではないです。正造は天国に行く道普請の最中で、多忙ですと話して下さいよ」


小中とは、正造の生まれ故郷で、栃木県佐野町にある地名です。


多忙な人が、お金に困って故郷の知り合いの所に出かけ、泊めてもらって食事をご馳走になり、お小遣いをもらって帰るなんて、あり得ることなのでしょうか。多忙は明らかにうそです。彼は誰からも何も頼まれていないし、自分で勝手に動き回って、忙しいといっていたに過ぎないからです。


金銭感覚の異常性・43

もう一つ、正造の興味深い手紙があったので紹介します。


島田雄三郎と言う人に宛てたものですが、どうやら、正造がこの人から時々お金を恵んでもらっていたようです。
そこで正造は、借用証を発行し、実際に甥の原田定助にお金を払わせようと図ったのですが、相手から「このお金は差し上げたので貸したのではない」と断られた、といった内容になります。


「回顧、明治13年以来、また23年以来、夢の如くにして今日に至り申し候。その間引き続き時々の恩恵、時々のご援助浅からず、貴家のご厚誼日々増し、年を加えていよいよ厚し。・・・小生の不肖も、貴下の如き人を得ては人道を全うするものに候。ついては先年来の恩借金といえども、何もかも投げやりにても人道またよろしからず、今後参上の頃、証文らしきもの相認め申したく候間、その節紙と筆と墨とをご用意、ご貸与下されたく候。おうかがいかたがた併せ御意を得候。頓首」(明治39年5月21日)


それからひと月後の明治39年6月25日、正造はこの島田雄三郎に宛てて、次の手紙を出しました。


「仮証。1.金20円也、ただし、間接に津久居彦七君を保証人に選任いたし、足利町原田定助殿より来る6日受取、急ぎ御回金仕るべく候事。明治39年5月19日。田中正造。島田雄三郎殿」


「本証元金返済のため持参候ところ、なお御恵与下さる候との厚きお言葉にしたがい、すなわち頂戴いたし候につき、後来のため、この仮証そのまま貴下に御預け申し上げ置き候也。6月25日、田中正造」


正造は、彼に寄付したいという人々に甘えて、「証文を書きます」などと口先で相手をだましながら、収入を得る道を選んだのではないでしょうか。


金銭感覚の異常性・42

田中正造は、借金を踏み倒した増田清三郎に関し、前回の手紙のほかに明治44年1月7日にも、同じく逸見斧吉に次の手紙を書いています。


「また埼玉の河辺村増田殿、同村に従来の悪漢等また人民を売って(私欲)云々、しかも増田殿等これを発見、去月その由を訴えるとて300人県庁に行く道、久喜の停車場辺にて警官の偽言にだまされて空しく帰りたりとの風聞は、かつて聞きおりたるところ、右利島(村)、川辺(村)の人民は、ここに到りて正造を頼まんとするのです」


「増田氏、先年は偽りの文句を左部彦次郎に学びて、悪手紙を東京市の我々の同志にくばりて、面目を傷つけ、今また正に死になんなんとしては人民を引き連れて正造にすがる。正造は暇すらあれば救うのです。増田殿が前年の事は咎めぬのです。けれども谷中の外四方八方皆この混乱で、手も足も廻るものでない。無邪気の人民は、鉱毒よりも水害よりも恐ろしき危難に陥りました。右参考に申し上げ候。早々頓首」


何を言っているのかわかりずらい手紙ですが、増田たち農民を「無邪気の人民」と決め付け、彼らは自分を頼ってくるが、「暇すらあれば救える」けれども、「手も足も廻るものでない」から、それはできないといっています。お金を返すことが先決なのに、自分勝手な理屈を持ち出して、その相手をかえって責めるのですから驚きです。


田中正造の異常な金銭感覚は、大正元年11月30日の次の日記にもよく伺えます。


彼は、国会議員引退後に選挙地盤を譲った蓼沼丈吉から、200円(今なら200万円)借りていました。相手は当然返金など期待していないお金でした。
ところが正造は、お金を返したことがない人なのに、口ではいかにもご立派なことを言っています。


「去る7月中、蓼沼丈吉氏は、佐野町川田屋にて予に面会の時、予が金200円の借金は帳消したりと告げたれば、予はこれに答えていう。返済の義務は我にあり。帳面は消すとも予が精神は消すべからず。予の精神は、返金せしのちにあらざれば消えず。蓼沼氏笑う」


金銭感覚の異常性・41

増田清三郎からの「金返せ」という催促状に対して、田中正造はいったいどのように対処したでしょうか。


実は、すでに明治42年8月15日の段階で、古河町の旅館・田中屋に滞在する正造は、逸見斧吉に次の手紙を出しています。


「増田清三郎のこと、右は正に相渡し候。大喜びでトント別人の如し。しかれども今後同人より貴下に何事を申上げるもこの上はナシです。委細は更に御面会」


正造は、借金を踏み倒した農民・増田清三郎に、何一つ遠慮していません。むしろ軽蔑しています。


それは、前回の明治42年12月26日付けの増田の催促状から10日ばかり後、明治43年1月6日の手紙からもよく分かります。古河町の村沢旅館に滞在する田中正造は、ここから東京の逸見斧吉に宛てた手紙に、この日なんと増田を馬鹿にして次のように書くのです。借金を踏み倒した相手に済まないと思うどころか、平気で軽蔑してお説教までしようとしてするのですから奇奇怪怪。田中正造という人は、農民を救済するどころか、明らかに愚弄していたことがよくわかります。言葉と行動は完全に分裂しているのです。


「去月下旬以来(埼玉県の)川辺の増田清三郎氏の裏通行。車にて往来6回せるに1回も立ち寄らざりしは、他人の素人にはなし急ぐためなり。しかして去月30日青年4人同行、立ち寄りたれば、この人すでに貧苦止みなく悪魔の小売に欺かれたり。増田氏は食えぬその理由の弁解、気焔万丈。これまことに神の我に教えられたるところなり。凡人食尽き飢えれば敵に降るを恥じず。あたかも兵士の戦破れて降るも同一に心得ておる。非戦論の国難ここにあり。食多ければ無益の戦争を聞き、食尽きれば内地の人民を責め滅ぼして兵士の食物とす。これ、現代の政治が我人民を殺しその肉を食うに至りしは、まことに凡人社会の常となり申し候。恐るべし恐るべし。増田清三郎氏の変化もまた哀れなる次第にて候。ただし、追々この人には人道の汚点たるをば説き申すべく候。蘇生まで説き申すべく。31日の夜も飯積の野中氏方にて夜食して、暗夜無灯提、独り麦倉の飯塚伊平氏に来泊す。10時にて候。5日夜書く。6日朝」


封筒の裏は、「古河町旅舎村沢方より本日発す。あとは田中屋、43年1月6日前9時」と書いてあります。彼はこの正月に点々と人の家に泊めてもらい、ご馳走に預かっていたわけです。正に乞食行為です。


金銭感覚の異常性・40

前回の手紙から半年後、明治42年12月26日に、増田清三郎は東京日暮里の逸見斧吉の家に滞在する田中正造に宛てて、また金返せの催促状を出しています。内容は以下の通りですが、誰かに代筆してもらったことは歴然としています。


とは言っても、意味が分からないところがたくさんあります。なぜそうなのかをよく考えながら、読んでみてください。


「拝啓、御貴殿様に申し上げます。3か年間田畑不作のために家族9人、実に食することも出来ない始末。明治40年度より3か年村税未納、次に学校建築費と共に53円を、いよいよ、いよいよ、いよいよ、財産差押えの命令あり、他に借用金の返済を請求され、子供5人に寒さしのぎが出来ず、そのために子供が病気を引受け、小生も長年の病気で見る影もなく、御貴君様お助け、お助け、お助けを願います」


「御貴君様は、聞くところによれば、来ても小生宅には寄らず、この次は寄るかと思えば素通りして、お願いもできず、12月30日までに金100円をぜひぜひぜひ、ご都合なり、借用するなり願います」


「家内どもは、御貴君が素通りに付き、田中さんは金の為に殺すんだろうか。実に母始めとして涙に暮れております。金もなし、食するものもないから、毎日母上に口説かれておりますことは、貴様が14,15年間の運動と田中正造への立て替え金元利、34年の調べは山のごとくだろ、その為にぢうらいのしんくうをしまうのか。実に情けない、なさけない、なさけない。毎日家内一同に泣かれております。大至急御情け、助けを願います。増田清三郎、家内一同にて」