金銭感覚の異常性・43 | 足尾鉱毒事件自由討論会

金銭感覚の異常性・43

もう一つ、正造の興味深い手紙があったので紹介します。


島田雄三郎と言う人に宛てたものですが、どうやら、正造がこの人から時々お金を恵んでもらっていたようです。
そこで正造は、借用証を発行し、実際に甥の原田定助にお金を払わせようと図ったのですが、相手から「このお金は差し上げたので貸したのではない」と断られた、といった内容になります。


「回顧、明治13年以来、また23年以来、夢の如くにして今日に至り申し候。その間引き続き時々の恩恵、時々のご援助浅からず、貴家のご厚誼日々増し、年を加えていよいよ厚し。・・・小生の不肖も、貴下の如き人を得ては人道を全うするものに候。ついては先年来の恩借金といえども、何もかも投げやりにても人道またよろしからず、今後参上の頃、証文らしきもの相認め申したく候間、その節紙と筆と墨とをご用意、ご貸与下されたく候。おうかがいかたがた併せ御意を得候。頓首」(明治39年5月21日)


それからひと月後の明治39年6月25日、正造はこの島田雄三郎に宛てて、次の手紙を出しました。


「仮証。1.金20円也、ただし、間接に津久居彦七君を保証人に選任いたし、足利町原田定助殿より来る6日受取、急ぎ御回金仕るべく候事。明治39年5月19日。田中正造。島田雄三郎殿」


「本証元金返済のため持参候ところ、なお御恵与下さる候との厚きお言葉にしたがい、すなわち頂戴いたし候につき、後来のため、この仮証そのまま貴下に御預け申し上げ置き候也。6月25日、田中正造」


正造は、彼に寄付したいという人々に甘えて、「証文を書きます」などと口先で相手をだましながら、収入を得る道を選んだのではないでしょうか。