金銭感覚の異常性・44
田中正造の日々の動きを見ていると、あちこち転々と移動していて、本拠であるべき谷中村にはほとんど落ち着いていません。
谷中から動かない方がお金がかからないはずなのに、働かずに収入のない彼が、なぜあちこち動き回っていたのでしょう。よく考えると理由は簡単です。お金がないからこそ、人の家を訪ねて食事をおごってもらい、泊めてもらっていた、と考えられます。
このことを正直に告白した手紙があるので、紹介しましょう。
公害反対運動のリーダー的な活動家だった野口春蔵に宛てたもので、日付けは明治44年9月1日、差出人は「日本の東京より、世界的土人」となっています。
「拝啓、臨時お頼み申し上げておきます。それは小中辺の人々が何を誤解せしか、正造が村長を望むとやら、万一にもなられては大変、郡長さん困るだろうとかにて、内々反対の運動しておるとの風聞が耳のきわをかすってきていた。・・・去年以来正造がたまたま小中に行くのは、銭に困って行くので、他に用があって行ったのではないです。正造は天国に行く道普請の最中で、多忙ですと話して下さいよ」
小中とは、正造の生まれ故郷で、栃木県佐野町にある地名です。
多忙な人が、お金に困って故郷の知り合いの所に出かけ、泊めてもらって食事をご馳走になり、お小遣いをもらって帰るなんて、あり得ることなのでしょうか。多忙は明らかにうそです。彼は誰からも何も頼まれていないし、自分で勝手に動き回って、忙しいといっていたに過ぎないからです。