何のための河川調査か・16
田中正造は、政府が千葉県関宿の川幅を9間強にまで狭める「流水妨害工事」をほどこしたので、豪雨のたびに利根川が逆流して上流の渡良瀬川に洪水をもたらしている、それは、明治29年の洪水で足尾銅山の鉱毒が関宿の下流の江戸川にまで流れ込んだので、それを防止するのが目的だった、と主張しているわけです。
しかし、これはあまりにもお粗末な空理空論で、何の根拠もない作り話にほかなりません。豪雨で上流から運ばれてきたさまざまなものが流れを止め、逆流することはどの川でもあるでしょう。しかし、それはあくまでも一時的に起こることで、渡良瀬川の沿岸を広い範囲まで浸水しつづけるほど大規模になるとは、物理的に考えられません。関宿の川幅は9間強あるのです。
しかも、関宿から10数キロ上流までは利根川本流で、渡良瀬川はそこから分かれる上流ですから、そんなに先まで逆流をもたらすことなどあり得ません。
もし鉱毒を含む汚染水が渡良瀬川から利根川に流れ落ちて関宿に至ったら、そこがどんなに狭い川幅でもそのまま江戸川に流れ込んで東京府内に運ばれます。関宿の川幅を9間に狭めることが、どうして鉱毒から東京を守る対策になるのでしょう。何でこんなことを政府がするでしょう。あまりにも馬鹿馬鹿しい話ではありませんか。
ところが、河川工学の学者である大熊孝は、全く非科学的な正造のこの作り話をすっかり信じ込み、次のように、いかにもあいまいな文章表現で正造の治水論は正しいと解説するのです。空いた口がふさがりません。
「(関宿の工事は)東京府下に鉱毒水が氾濫することを恐れての対策であると考えることには矛盾がないように思われる」
大熊はまた、江戸川河口の行徳の塩田への「鉱毒被害の拡大をもっとも恐れたためではないか、と考えられる」ともいっていますが、明治政府は、すでに鉱毒が渡良瀬川に流れ込むのを防ぐ工事を古河鉱業に命じていました(明治30年)。
実際それ以降新たな鉱毒の流出は止まり、6年後には沿岸の農業被害はなくなっています。
明治36年6月には、政府が設置した鉱毒調査委員会が「予防工事以降は汚染物質がわずかしか流出していない」旨の調査結果を発表しています(由井正臣『田中正造』177頁)。
学者でありながら、大熊はこうした具体的事実を全く調べずに、ただただ田中正造を信じきって、彼の作り話を正しいと学術専門書に書いたというわけです。