正造の晩年の孤立・3
逸見斧吉は、正造が谷中問題で訴訟を起こしたことにも反対を表明しました。
彼は応援する立場の人間として、付き合いで原告に名を連ねていたようですが、明治43年7月3日に正造に宛てた手紙では、次のように「取り下げてほしい」と頼んでいます。しかしまた、気を使ってお金を送っていることに、逸見の人間性がよく現われています。
「裁判事件、何かとご苦心のご様子。お気の毒千万に存じ上げ候。私共には僭越の申し分に候えども、裁判の存在はむしろ谷中問題の汚辱となりしように心得られ、名実ともに無効の煩労にはあらずやと思われ候。原告者の一人として名義を列する私に候えば、如何にしてでもこの訴訟の取り下げをしていただきたく御座候。・・・別券お納め下されたく候。心ばかりの供養に御座候」
逸見はまた、谷中問題で県知事に請願書を提出することにも、正造に反対しています(明治45年6月7日付けの手紙)。
「谷中事件訴訟問題につき、控訴はせぬ代わりに県知事へ宛て最後の請願書提出し候よう申し合わせに従い、その文案を試みいたし候えどもまとまらず・・・私にはこの請願書差し出すこと叶わぬ事と相成り申し候間、何卒この段しかるべく御高察願いあげ奉り候」
「そもそも私自身谷中問題に飛び込んだ動機のいかがわしさを思うては、為政当局の失態をとがむるの資格なき事が思われてなり申さず、何もかも知りての後ならでは手も足も出申さず候」
逸見斧吉は、正造と違って、自分は善人で谷中問題で反対の立場に立つ人々は悪人だといった単純さは持っていなかったのだと思います。