何のための河川調査か・14 | 足尾鉱毒事件自由討論会

何のための河川調査か・14

大熊孝の著書への批判をつづけます。

この本で著者は足尾鉱毒事件の説明をしていますが、その中に次のような部分があります。


「明治35年9月の洪水で、鉱毒を含まない土がそれまでの鉱毒の上にかぶさり、被害が軽減される傾向が現われ、36年には多少の収穫が見られ、37年には平常に近い収穫が得られるという状態であり、鉱毒問題に関する運動は急速に下火になった」


事典や教科書で足尾鉱毒事件のことを調べれば必ず書いてありますが、鉱毒の被害は必ず洪水の後で起こっています。川底に沈澱していた公害物質が洪水に伴って沿岸の農地を汚染するからです。

それなのに、なぜ「洪水で、鉱毒を含まない土がそれまでの鉱毒の上にかぶさる」のでしょう。

汚染していない土はどのように鉱毒の上に「かぶさる」のでしょう。


この人は、科学者でありながら現実には起こり得ない現象が起こったといっているわけです。しかも科学者でありながら何の証明もしていません。

彼がなぜこんな珍妙な解説をしたかといえば、それは、彼が田中正造が思いつきで創作した法螺を、本当の話だと信じてしまったからです。


大熊孝はこのことに全く触れていませんが、政府の厳命に忠実に従った加害者の古河鉱業は、明治30年に大規模な鉱毒防止工事を敢行しました。


その効果は絶大で、明治34年秋には、「鉱毒被害地も、激甚地を除く外は極めて豊作にして」(朝日新聞・10月6日)という記事に見られるほどの回復振りを示し、35年秋の洪水でも農地は汚染されなかったらしく、翌36年の秋には正造が、全部で10回の演説のうち8回も「被害地豊作の実況」と題名をつけたほど、鉱毒被害は消えていたのです(『田中正造全集・別巻』の年譜を見てください)。


「古河の鉱毒防止工事は全然効果がないのだ」といい続けてきた正造は、この時どう対処したでしょう。

大熊孝等学者達がみんな騙された次の法螺話を作ったのです。


「昨年9月の風雨の際、渡良瀬川本支流水源の山々が10里以上に渡って崩れ、ほとんど50年分の土が数尺被害激甚地の上に覆いかぶさった。その新土は天然の新肥料になったので今年は5倍の豊作になった。今は3歳の小児でも、豊作の原因が古河鉱業の鉱毒防止工事のためでないと知っている」


こんな馬鹿げたフィクションをなんで学者まで信ずるかといえば、彼らが正造によって完全に洗脳されているからです。