何のための河川調査か・7 | 足尾鉱毒事件自由討論会

何のための河川調査か・7

正造はあくまでも渡良瀬川改修計画に反対で、死ぬまで徹底的にその態度を変えませんでした。


しかし、この川の沿岸に生活する農民など住民の大多数は、改修を積極的に支持しました。
ですから沿岸4県の地方議会は、群馬県の明治42年9月10日を始めとして、栃木県(同年9月27日)、茨城県(同年11月28日)、埼玉県(明治43年2月9日)という順序で渡良瀬川改修諮問案を成立させました。
住民側が渡良瀬川の改修をどれほど切望していたかを示す証拠を紹介しましょう。


木塚貞治議員は、栃木県会で次のように演説しています。


「この機会を逸したならば・・・我々はいつの時を待ってこの国難を防ぐことが出来ましょうか。・・・今日まで貴・衆両院、内務省、内閣、1年として請願を出さない年はないのである。・・・我々両沿岸の人民が困難をしておりますのも20年来のことで、・・・実に5000町歩にわたるくらいで、・・・この幾多の土地を復活し、多数の被害民を助けるためには、一小部分の犠牲は実に涙をのんで・・・」(明治42年9月10日)


正造と反対の立場をとったのは沿岸4県の地方議会だけではありません。
足尾銅山の公害反対運動で正造と一心同体だった活動家もまた、改修案を支持しました。
そのため、正造は彼らのことを「狂った」と言いつつ哀れんでいます。逸見斧吉・木下尚江・柴田三郎(都新聞の記者)に宛てて正造は、次の内容のハガキを出しています(明治42年9月16日)。


「野口春蔵氏、大出喜平氏を始め、従来の同志2郡狂せり。しかれども真理にあらず。ただし、この人といえども、多年耕作収入乏しく貧困の人民を救うで無理もなし。これ人なり。未だ神に至らざるのみ。御あわれみ相願いたく」


「彼らは神様でなく人間なので真理は理解できないのだ」というわけですが、正造は、あくまで「自分は絶対的に正しい」と思い込んでいたのです。