何のための河川調査か・8 | 足尾鉱毒事件自由討論会

何のための河川調査か・8

沿岸4県の地方議会の決議を受けて、渡良瀬川改修案は帝国議会に上程されます(明治43年3月9日)。

正造は徹底的な陳情・請願運動を展開し、知人の代議士に頼んで議題にしてもらおうと図りました。

しかし、誰一人協力してくれる人がありませんでした。


結局議会運動も失敗に終り、渡良瀬川改修計画案は、3月23日に第26帝国議会で可決されました。

このような過程から見ると、正造の言動には相当に無理があることがわかります。


にもかかわらず、正造は、この年の8月に起こった大洪水を契機に、以前より更に徹底した河川調査に歩き始めるのです。

全集の解説によれば、彼は、利根川、渡良瀬川、鬼怒川、那珂川、荒川などの河川を、その枝川、細流まで約2年にわたって綿密な現地調査を実行しました。


その調査とは、過去の洪水や増水と最近のそれとの比較だったということです。

そして、明治44年以降、「河川巡視踏査はいっそう本格的になり、詳細な調査記録が残っている」と、全集・第18巻の「解題」には書いてあります。


しかし、確かめてみたところ、「詳細な調査記録」などではなく、現地の農民からの単なる聞き書きにすぎませんでした。洪水時の水位、出水の模様、堤防の破壊状況、橋梁が流れた様子などを聞いてまわっていますが、データを分析する専門的知識がない正造に、客観的な結論が得られるはずなどありません。


その記録を認めてくれる機関もありません。当然のことながら、当時は正造の治水論など全く無視されました。

ところが、1960年あたりからは、正造のほとんど意味のない当時の行為が極めて高く評価されるのです。

全集第18巻の「解題」には、次のように書かれています。


「これ(この調査)によって田中は、自己の実証的治水論の正しさに自信を深め、具体的な治水策を提唱することができた」


「提唱することができた」としても、無視されたのでは意味がありません。しかし、学者や研究者は、まるで大きな価値があったかのように解説しているわけです。