何のための河川調査か・10 | 足尾鉱毒事件自由討論会

何のための河川調査か・10

学説は、「明治43年8月の大洪水以降、正造の河川調査はさらに本格化した」ことになっています。


しかし、彼の治水論は終始変わっていません。

結論は「人工的に狭めてしまった千葉県の関宿の部分を広くせよ」というもので、河川調査をする前も後も同じ台詞を繰り返しているだけなのです。


明治41年9月19日付けの内務大臣宛の訴願には、次のようにあります。


「利根の水底は、上流より流下する自然の土砂、徳川時代において、僅々年に4,5分ずつ埋設するにすぎざるも、250年間には1丈余の埋設を来たす。これまことに自然の致す所」


「今や然らず、河底1年に2尺5寸内外ずつ土砂をもって埋む。したがって、堤防もまた2尺5寸を増築せざるを得ず。(したがって)今より250年の以後には(埋設は)驚くべし62丈5尺となり、堤防もこれに伴いて62丈余の増築をなさざるべからざるに至らん」


「関宿を開放して旧に復し、下流に適当なる疎水工事をなし、水勢を海湾に注ぐべし」


2尺5寸というデータはどのようにして調べたのでしょう。彼がいかに出まかせの数字を挙げているかがこの文章でよく分かりますが、その1年後、明治42年9月12日に栃木県会に当てた陳情書にも、


「関宿の河口を開けば治水問題の大部分は解決される」、「関宿を開くは5県下200余ケ村を死より生に甦らせ、かつ堤防増築は不要となり、年々の工費に余裕を来たす」


などと、同じことを繰り返しているに過ぎません。大規模な河川調査をしても結論は同じでした。

明治45年1月23日の日記には、


「関宿開放せば、利根、渡良瀬の改修は殆んど少し」


と書いてありますし、同年5月23日の日記にも、


「渡良瀬川沿岸の水害は関宿石堤工事の妨害なり。しかして沿岸の目は関宿に注がずして、藤岡町(旧谷中村)北方切断に熱中す。至愚の至愚なるものなり」


と記しています。結論が決まっているのに、なんで何年間も河川調査をする必要があったのでしょう。

正造は初めから不必要なことをしていたにすぎないのです。