大林宣彦監督の尾道3部作と言われるのは「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」であるが,前2作が25年後と27年後に,それぞれ大林宣彦監督自身と谷口正晃監督によってリメイクされた。
転校生は,時代は25年後であるが基本的に当時と同じ設定であるのに対して,時をかける少女の方は,オリジナルの主人公の38年後の娘の話として描かれており,同じくリメイクと言っても,手法は異なる。
それにもかかわらず,両作品には著しい類似点がある。
それは,オリジナルに比較して,結末が極めて悲劇的なことである。
転校生は,再会した幼なじみの中学3年生斎藤一夫と斎藤一美の心と体が入れ替わってしまうストーリーだが,オリジナルでは元に戻ることができた後,そのときの思い出を胸に抱いたままふたたび別れていく。一方,リメイク版では,入れ替わった後,一美が不治の病に冒されてしまう。結局,リメイク版でも一美が死ぬ直前に元には戻るわけだが,それは一夫と一美の永遠の別れを意味する。
時をかける少女のオリジナルでは,深町一夫こと未来人ケンソゴルは恋に落ちた芳山和子(転校生と時かけの登場人物の名前は原作通りなので,この奇妙な名前の類似は偶然である)の記憶を消して未来に帰るが,リメイク版では,あかりが好きになった溝呂木涼太はバスの事故で死に,あかりはそれを知りながら何もできない。
このような悲劇的な結末について,大林宣彦監督は,現在の抜き差しならない状況を考えると,そこまでしなければただのノスタルジーに終わってしまう,と言い,時をかける少女のプロデューサーも,今の時代だとこのくらいの残酷さがないとダメだと言っており,奇しくも同じようなことを考えているのである。
転校生で,一夫が入れ替わった一美は,兄にその妻が死んだ理由を尋ねる(本当は,一美は既に知っていたはずであるが,一夫なので,知らないのである)。
兄は,人が死ぬ理由は誰にも分からない,と答える。妻は酒酔い運転の車に轢かれて死んだのであるが,なぜ,そのとき,そのようにして死ななければならなかったのか,それは誰にも分からない。だけど,彼女が生きた理由なら,いくつでも言うことができる。自分と愛し合い,娘を産み,その娘を愛した。それが,彼女が生きた理由だという。
その話を聞いて,一美と入れ替わった一夫は,一美のために死ぬのではなく,一美のために生きようと思う。一美に死が訪れるまでは,一美は生きているのであるから,その生に意味を与えることこそが,自分が一美のためにできることだと考えるようになったのだ。
だから,ふたりの心と体が元に戻ったあとも,一夫は一美のために生き続けることを誓うのだ。
時をかける少女で,あかりにとって,本来,溝呂木涼太は,自分が生まれる前に事故で死んだ父の学生時代の友人に過ぎず,父と離れて暮らしているあかりにとって,その存在を知る機会すらなかったはずである。
そして,それは記憶を消されて現代に帰ってきたあかりにとっても,同じことなのだ。
しかし,母のためにタイムリープをしたあかりは,溝呂木涼太と暮らして,彼が生きた理由を知ることになった。彼が,あのバスの事故で死ななければならなかった理由は,やはり誰にも分からない。だけど,映画を愛し,映画作りに情熱をかけ,家族を愛し,あかりを愛した彼が生きた理由は,あかりの記憶から消えても,心の中に生き続けている。
人の死から学ぶべき事は,きっと,たくさんあるのだと思うが,身近の人の本当の死から,何かを学ぶのはとても難しいことだ。
そのために物語の中で死が語られ,私たちは,そこから何かを感じ取る。
転校生も時かけも,二十数年の時を経て,死を通して生きる意味を問う時代になった。
蓮佛美沙子や仲里依紗といった若手の女優が,渾身の演技で死に向き合い,私たちに生きる意味を問いかけている。
転校生は,時代は25年後であるが基本的に当時と同じ設定であるのに対して,時をかける少女の方は,オリジナルの主人公の38年後の娘の話として描かれており,同じくリメイクと言っても,手法は異なる。
それにもかかわらず,両作品には著しい類似点がある。
それは,オリジナルに比較して,結末が極めて悲劇的なことである。
転校生は,再会した幼なじみの中学3年生斎藤一夫と斎藤一美の心と体が入れ替わってしまうストーリーだが,オリジナルでは元に戻ることができた後,そのときの思い出を胸に抱いたままふたたび別れていく。一方,リメイク版では,入れ替わった後,一美が不治の病に冒されてしまう。結局,リメイク版でも一美が死ぬ直前に元には戻るわけだが,それは一夫と一美の永遠の別れを意味する。
時をかける少女のオリジナルでは,深町一夫こと未来人ケンソゴルは恋に落ちた芳山和子(転校生と時かけの登場人物の名前は原作通りなので,この奇妙な名前の類似は偶然である)の記憶を消して未来に帰るが,リメイク版では,あかりが好きになった溝呂木涼太はバスの事故で死に,あかりはそれを知りながら何もできない。
このような悲劇的な結末について,大林宣彦監督は,現在の抜き差しならない状況を考えると,そこまでしなければただのノスタルジーに終わってしまう,と言い,時をかける少女のプロデューサーも,今の時代だとこのくらいの残酷さがないとダメだと言っており,奇しくも同じようなことを考えているのである。
転校生で,一夫が入れ替わった一美は,兄にその妻が死んだ理由を尋ねる(本当は,一美は既に知っていたはずであるが,一夫なので,知らないのである)。
兄は,人が死ぬ理由は誰にも分からない,と答える。妻は酒酔い運転の車に轢かれて死んだのであるが,なぜ,そのとき,そのようにして死ななければならなかったのか,それは誰にも分からない。だけど,彼女が生きた理由なら,いくつでも言うことができる。自分と愛し合い,娘を産み,その娘を愛した。それが,彼女が生きた理由だという。
その話を聞いて,一美と入れ替わった一夫は,一美のために死ぬのではなく,一美のために生きようと思う。一美に死が訪れるまでは,一美は生きているのであるから,その生に意味を与えることこそが,自分が一美のためにできることだと考えるようになったのだ。
だから,ふたりの心と体が元に戻ったあとも,一夫は一美のために生き続けることを誓うのだ。
時をかける少女で,あかりにとって,本来,溝呂木涼太は,自分が生まれる前に事故で死んだ父の学生時代の友人に過ぎず,父と離れて暮らしているあかりにとって,その存在を知る機会すらなかったはずである。
そして,それは記憶を消されて現代に帰ってきたあかりにとっても,同じことなのだ。
しかし,母のためにタイムリープをしたあかりは,溝呂木涼太と暮らして,彼が生きた理由を知ることになった。彼が,あのバスの事故で死ななければならなかった理由は,やはり誰にも分からない。だけど,映画を愛し,映画作りに情熱をかけ,家族を愛し,あかりを愛した彼が生きた理由は,あかりの記憶から消えても,心の中に生き続けている。
人の死から学ぶべき事は,きっと,たくさんあるのだと思うが,身近の人の本当の死から,何かを学ぶのはとても難しいことだ。
そのために物語の中で死が語られ,私たちは,そこから何かを感じ取る。
転校生も時かけも,二十数年の時を経て,死を通して生きる意味を問う時代になった。
蓮佛美沙子や仲里依紗といった若手の女優が,渾身の演技で死に向き合い,私たちに生きる意味を問いかけている。