彼の遺した『赤影』。
❑今から58年前の1967年、当時『赤影』は、東映京都テレビプロが仕上げたフィルムを関西テレビに運び、映写しながらカラーテレビの生放送で流すと言う形が取られていた。
❑赤影公式YouTuber第1話❑

❑昨年その『赤影』の『坂口祐三郎』の21年目の命日を迎え今年二十三回忌を迎える。
仕事が縁で私と出会い、二人三脚で、『赤影』の新作を映画にしようと語りあった日を本当に懐かしく思う。
私も『赤影』『坂口祐三郎』のファンからスタートした一人である。
遠い昔の幼少期の頃、幼稚園のホールで観た『赤影』『坂口祐三郎』の勇姿に魅了され、自宅の再放送のテレビで観たと思う。

以降、再放送のチェックをしながら時が過ぎ、後年『坂口祐三郎』と会うことになる。
いつの間にか、深い友情が芽生え、寝食を忘れる程、彼との仕事を中心に活動することになる。
彼自身、『赤影』以降、数多くの俳優活動をしたものの、イメージの強い『赤影』が、いつまでも、立ちふさがると嘆いていた。

『赤影』撮影時の秘話は、勿論、『彼の生い立ち』『人生』その全てを聞きながら毎日を過ごしていた。

そんな2003年の7月13日。
22年前である。
前日迄、普通に話をしてた彼が突然、この世を去る。

⭐今も親交のある東映の幹部の方に、(当時、課長の役職だった)、私が坂口さんの訃報を伝える為、電話をした時、『坂口祐三郎が亡くなりました』という私の言葉に、『えー!』と、社内に響きわたるほどの大声で反応した事が、今も強く記憶に残っている。
普段は冷静な人だっただけに、電話越しで声が裏返る様子に、非常に驚いたからだ。

❏そう、『赤影』さん、『キラリと光る涼しい目』の『坂口祐三郎』は亡くなったのだ。
電話で彼の反応を受けた瞬間、私も一気に緊張の糸が切れ、大の大人の男であるにも関わらず、大泣きしてしまった事を思い出す。
あまりの自分の大泣きに、私自身驚き、『人は、これほど泣けるのだ』と、時間が過ぎてようやく気付いた程である。
『後は頼んだぞ』………………と。
そして、今も『旅の途中』である。