❑訃報である。





❑NHKで初のドラマ化放送、新たな再放送を期待してます。


そして8月1日は昭和の歌謡界に多大な影響を与え、私にとっても思い出の歌を数多く届けてくれた作詞家/阿久悠さんの命日である。



❑NHKで初のドラマ化❑



私目線の思い出をまとめたのでご覧頂きたい。







私は1960年代の昭和生まれ、最初にテレビの記憶を思い出すと赤影/坂口祐三郎が現れる。


初見の記憶は無く、幼少期の私の記憶に彼の勇姿は刻みこまれていた。


その赤影の坂口祐三郎と二人三脚のエンターテインメントビジネスを経て私は現在作家活動に従事している。






1967年昭和42年。

当時一世風靡した赤影の台本を1人で全編書いた脚本家、伊上勝さん。





▓赤影の坂口とプロデューサーの平山さんから彼の話は良く聞いていた。


その彼がフリーの脚本家になる以前の会社に在籍していた部下の若者が、後の阿久悠氏になる。


まだ作詞家前の時点で伊上さんの影響を受け歌謡界に軸足を置く事になるのだ。


その阿久悠氏の命日が8月1日。

今尚、彼の歌の数々は私の心に流れている。


今も私の成長期に大きな影響を与えた歌手と歌詞を一部であるが紹介したい。


私が赤影の坂口祐三郎との別れの時、脳裏を走った、西城秀樹さんの『ブルースカイブルー』。


阿久悠さんの最初のレコード大賞受賞曲。

尾崎紀世彦さんの『また逢う日まで』。



沢田研二さんと言えば、『勝手にしやがれ』『時の過ぎゆくままに』『サムライ』『ヤマトより愛をこめて』等々。



郷ひろみさんの『いつも心に太陽を』『素敵にシンデレラコンプレックス』。



野口五郎さんの『真夏の夜の夢』『女になって出直せよ』。






❏私事の余談である、アニメデビルマンの歌。
驚きの阿久悠さんが歌詞を書いていた事を今回初めて知り驚きと感謝を贈りたい。




❏この他数多くの名曲が私を含め皆さんの心に刻まれている。


阿久悠さんが小説家として書いた『瀬戸内少年野球団』は映画、テレビと時代と共に製作され私達の心に繋がっているようだ。



▓私も作家の1人として阿久悠さんを心より尊敬している。

遠い昔、伊上勝さんの自宅に1年間下宿して、作詞家のノウハウをどう伝授されたのか、興味深い話も多い。


何より伊上勝さんの赤影の全脚本と主題歌の作詞も全て手掛け、後に阿久悠さんがフィンガーファイブから始まる歌謡界のキャラクターの基礎を築き上げたそんな気もするのは伊上勝さんの影響が大きいと思う。

ピンク・レディーなど象徴的で阿久悠さんのエポックメイキングの気がしてならない。

私自身、世代の人間なのでピンク・レディーが飛び出してアニメ化のドラマが出来たのも当然知っていた。

後年、ピンク・レディーの番組を東映プロデューサーで赤影の制作陣であり、伊上勝さんに脚本依頼の平山亨さんに繋がった事を知った時は、驚いて平山さんに伝え裏話も多数頂いたものである。








ご健在であれば2023年2月7日に86歳。


決してあり得ない年では無い。


これからも私の人生の心の中に、阿久悠さんの歌が流れ続けるそんな気持ちがする。


❑私の想い。
幼少期、赤影に魅せられ正義のヒーローになりたいと思った事がある。
当時、広い日本には戦国の世界がありカメラマン達が撮影した赤影を実在すると思っていた。

幼稚園に上がる前だから仕方無いものの、空想に惹かれてる頃。
後年、テレビ番組から映画等興味の対象が広がり音楽、そして関連番組、歌手に興味を持つ様になる。

今、改めて考えると映画会社がテレビ番組に制作請け負い業を、始める事で様々なクロスオーバーが始まったと思う。
映画監督の平山亨さんは東映テレビ番組企画のプロデューサーへ転身、映画と異なる発想点を持つ伊上勝さんに脚本を依頼。
フリー前の脚本作業を見ていた若き阿久悠さんが交流を生み、歌謡界の世代交代と重なり作詞家としてデビュー。
ヒットを飛ばす流れで日本テレビのスター誕生に深く関与、そこから現れる歌手達が阿久悠チルドレン的に歌をテレビから送り私の少年時代、成長期に様々な影響を受ける。
今こうして俯瞰して自分の人生と重ねると赤影も歌謡界も今の私を構築した財産であるあると感じる。





 ▓阿久悠さんの師匠的存在だった脚本家・伊上勝さん。