⭐ある時、坂口祐三郎が私に言った言葉を今も時々思い出す。



『君は優しく見えて鬼の様に厳しい部分があるねと。』





そんな事無いですよと笑顔で返す私に畳み掛ける様に続ける。



まぁ良いか、厳しく接する分だけ、貴方自身も自分に厳しいって事の裏返しだからね…そう言ってた事を懐かしく思い出す。




私と坂口は意気投合後、本当に色々な話をして来た。



彼に親友と言う『存在』が居なかった様である。



私と二回りの年齢差に衝突もあるものの、時に世代が違うと言う点を受け入れる柔軟な部分も多かったのだ。



特に彼が赤影後の苦労する時期、おそらく1970年代昭和45年頃と思う。



私はまだ小学生に上がった頃、学年が上がるに連れ、テレビの視聴幅が広がり、音楽番組等を視聴する機会が増える。




一方の坂口は主演後の番組出演が増え、固定の主演レギュラーは獲得出来ないジレンマに陥る。




後に彼の話しと東映プロデューサーの平山亨氏の話し総合すると当時、彼が飼い殺し的な状況だった事が見えて来る。




カラーテレビの受注で予算の付く東映と数あるテレビ局の綱引きの煽りを坂口がもろにかぶってしまうのだ。


きっと営業サイドの提案は、こんな感じと思う。


✡️『赤影の主演者』の知名度は製作サイドには好都合である。








『あの赤影』あの番組的なモノを作りますと誘う。


プロデューサーは平山亨、必勝パターンです。








問題は予算である。




赤影は実験的な作品と大手家電メーカー三洋電機がプロモーション予算を投じたものの、以降の作品は予算管理が厳しく製作が見送られる日々と平山亨氏は語っていた。








映画はチケットを買い収入が約束される。


一方のテレビはスポンサー収入が前提。


当初は期待値の高い作品も放送後は終わりと言う時代。



作品と合わせて商品化が本格的にスタートする前、ビデオ、dvd等の商品も存在しない時代である。


良く坂口はその頃、歌をラジオで聴いて自身のモチベーションを維持していたと言う。




何人かのプロデューサー、製作スタッフが坂口を主演に映画、テレビに走り回ったと言ってた。


逆に言うと半端なレギュラーの仕事を入れて主演作品を見送る事は避けるべきと言われ続けたと言う。


苦悩葛藤の時期である。


■私はその頃小学生。




■赤影のポーズで撮った写真。




少しずつ、歌謡曲に興味を持ち出す。




彼が飼い殺し的な時期に聴いた歌謡曲の時期と私の吸収期が重なり、そこに、沢田研二、西城秀樹、野口五郎、郷ひろみ、山口百恵、桜田淳子、天地真理、小柳ルミ子等の華やかな歌手が現れる。




















不思議な事であるが私にとって当時の昭和歌謡の歌手の人の顔、名前、曲、一瞬にして頭に入ってしまう。



坂口も興味本位で、私に色々質問する歌手と曲を全て、言いあてて舌を巻いて驚かれた事もあった。



もっと言うと作詞、作曲等、一通りのプロセスも記憶していたからだ。



何処か興味あるものの記憶力が人並み外れている事に気付くのはずっと後の事である。



彼が数ある歌謡曲の中で、最も多く語った曲がある。





『いい日旅だち』山口百恵さんの唄である。

私の初見は中学二年。




坂口は36歳。


赤影の10年後である。


俳優業を辞めたり始めたり、迷走時期。


特に『日本のどこかで私を待ってる人がいる』にずっと惹き付けられていると言う。



『坂口さんの赤影に惹き付けられている人も負けないくらい沢山居ますよ』




私の言葉に笑顔で応えた顔が今も心に蘇る。