徒然むかしばなし

徒然むかしばなし

蝦夷地のほぼど真ん中に棲むクイズとロックバンド好きの主婦による、昔の思い出話をまとめたブログ

Amebaでブログを始めよう!

このブログにたどり着いた皆様こんにちは。
くるびと申します。
現在は蝦夷地のほぼど真ん中の市に棲んでおります、
ホルモンのナヲさんと同い年のロック好きな主婦です。

こちらのブログは、2006年からいろんなSNSに渡って
日々の出来事を綴っていたものを、後々となった現在も
何らかのお役に立てそうかもしれないと思うものだけを
アーカイブとしてまとめた記事を中心としております。
主な内容としては好きなアーティストのライブ観覧雑記、
ご贔屓の方への想いを綴った文章です。
日付を該当の出来事当時の日時で入れていますので、
新着記事であっても一番上に来ることにはならず、
基本的にはこの説明文が一番上に来るようにしています。

ブログの文体についてですが、昭和の50年代の人間が
そこそこネットの文体を見知っているくらいで書いており、
草がたくさん生えてたりするとかがあると思いますが、
なかなかこれは直りませんのでご了承ください。
あと普段の話し方からそうなのですが、割と説明が多く
あまり面白い文体ではないかと思います。
いかにもアクセス数を稼ぎたいかのような題名で釣ったり
「どや、わたしの文章面白いやろ」というような文体の
ブログやSNS投稿などに辟易している性格ですので、
わたしの文章はそういったものを期待しないでいいと、
先にお詫びしておきます。すみません。
ダラダラ長い文章ばかりになっているのですが、一応
そういったささやかな信念のもとに書いています。
写真の有無については当時の投稿に準じて投稿します。
当時に文章だけで書いていたものは文章だけのままで、
写真付き日記にしたものは極力復元させて投稿します。

早速もうご挨拶が長くなりましたが、そんな感じで。
よろしくお願いします。

という日にちが、まさか15年経ってもずっと特別な日だという風に思えるとは。

お逢いした時や一方的に見知っていた頃には、想像も出来なかったです。

 

不思議な出逢いとその後の15年と半年は、決して楽しいばかりの日々じゃなくて、

何度となく「居なくなってしまいたい」という企図もしてしまったりしたのですが、

そんな中でもずっと変わらなかった、「お店で受け入れてくれたことへの感謝」は、

わたしが人間としての身体が機能している間は、忘れないで居たいと思っています。

機能している間は、という言い方をすると少し悲しい表現になってしまうけど、

世界的な疫病に振り回されているご時世だったり、わたしの勤め先でのやりとりで

「人間というのは、悲しいかな平均80年前後で活動限界が来る」ということと、

「人によっては80年どころか、というところで限界が来る不運がある」というのを

考えずには居られないこの1年間を過ごしてきているので、わたしなりの思いとして

「でもその無事に生きられている間は、感謝を忘れたくない」と思うわけです。

あんまりしょっちゅう言っていると重たい感じになっちゃうのですけども。

 

わたしはあまり、Twitterで盛況に行われているハッシュタグに混じってだとか、

0時丁度に思いを発するのは、もう旦那持ちの身で堂々とやることではないなと

いう風に思っているので、なんだか斜に構えた感じで申し訳無いのですが、

これが今のわたしなりの気持ちとして残しておきたい文章とさせてください。

去年の今日、かの方の故郷へ渡航をしてきて、ちょっと考えられないくらいに

凄い偶然があったりして、また1年、思いを強く持つことが出来たのですが、

一方でその後もずっと「こんな思い方は迷惑になる」という思いが拭えずで、

たぶんこれはずっと、どんどん歳を取るたびに考えていくような気がしてます。

通い詰めてた頃も「気軽に「ファンです」「格好良い」って言えたら楽だ」と

何度となく考えていたりしていたのですが、なかなか今後も直らなさそうです。

遠慮がないファンよりは良いかなと思っているので、赦してください。

 

と言いつつ、今日はたまたま昼からで昔の職場であるカラオケ屋さんに行くので

想い人さんの曲を歌ってきたりしてみたいなあとは思っています。

歌っている声を趣味で録り貯めてはいたんですが、いっぺん上げてみようかな。

こないだ比較的わたしと想い人さんは発声が似ているのを見つけたりしたので、

えいやっと世間に投下してしまっても良いですかね…。

まさかこのような心情でのお話を、まさかこの方の事で書くことになるとはです。

またちょっと、当時のむかしばなしを書こうと思います。

 

MONOBRIGHTさんの『孤独の太陽』という曲が、凄く好きだったんです。

2009年リリースの曲で、とあるドラマの主題歌になっている曲でした。

これを書いている今日、そして思い出したきっかけとなった昨日に入った、

とある悲し過ぎる訃報を聞いて思うことがあったのです。

当時の記憶等々も含め、あれこれ書いてみようと思います。

 

該当の楽曲はYouTubeにMVが置いてありましたので、ぜひご覧ください。

https://youtu.be/xL7czdI1ULA

 

あと、歌詞はこちらへ。

http://j-lyric.net/artist/a04d315/l01c3cf.html

 

この曲はなんと言っても、MONOBRIGHTという、長年好きなバンドの9mmを

共に好きで居た音楽好き仲間の女の子がすごく好きで居た、というバンドが、

地上波のドラマの主題歌を初めて担当するというところに知るきっかけが

あったのでした。事務所関係で、そのドラマの主演の方のご縁があったそうで。

2009年10月という、時期的にも丁度そのバンドも、そしてわたしとその仲間の

女の子が共に好きだった9mmも、歴史的にも一番メディアや夏フェスなどへの

露出があった頃だったかな、と思っています。

 

そして、起用されたドラマの初回を初めて見て、ひとりの役者さんの、

二面性を帯びた主人公を演じる素晴らしい演技力に惹かれたものでした。

そして、後々までひっそりと「素敵な役者さんだ」と思うことになります。

三浦春馬さんとおっしゃる役者さんでした。昔に見た『14歳の母』という

作品で、主人公の女の子を妊娠させてしまうという男の子、の印象とは

随分と成長を経て精悍な雰囲気になられたな、と当時思ったものでした。

 

該当のドラマは、少し気が弱い高校生の男の子が、図書館で歴史の本を

読んでから突然武士に変身して、悩み事に立ち向かう、というような

内容だったかと思います。おどおどしている普段の少年と、侍の時との

ある意味顔芸かと思うくらいの、精神状態の二面性が凄く印象的でした。

侍ということで、確か殺陣のシーンなんかもあったのを覚えています。

言ってみれば学園ドラマでありながら、時代劇的なこともするという、

これは役者さんが相当見事でないと成立しないよな、というものでした。

 

このお話、ドラマを見ていた人間としては「いやー凄かった」という

感想を抱いて終わるのですが、役者さんの側からしてみればこの役柄は

相当大変だったんではないかと思ったものでした。

実際、三浦春馬さんのwikipediaにもそのことが書かれておりました。

ご本人的にはこんなに負担が大きいのは初めてというくらいの疲労感で

「役者をやめて農業の道に」「とにかく今の状態から逃げ出したい」

「故郷へ戻りたい」というお気持ちがあったということを知りました。

結局お母さまに説得されて思い止まったそうですが、この事でもう、

ご本人としては俳優としての自信をなくしたとの事でした。

この話を知って、皮肉なものだなあ、と思ったものです。

そのくらい凄く素敵な演技でしたし、お顔立ちや雰囲気も清潔感のある

すっとした美しい方でしたので、本人の想い出と客としての印象は

こうも違うことがあるのだなあと思ったりしたものでした。

 

三浦春馬さんの出世作を一つ挙げなさい、となると、わたしが好きな

その『サムライ・ハイスクール』という作品や『ブラッディ・マンデイ』

というドラマではないそうで、世間的には『君に届け』『進撃の巨人』の

印象が強いという方が、訃報のあった後に見たTwitterでのワード検索では

多かったように思います。ただ、それ以外にも素敵な演技があった作品は

他にもあって、わたしは作品を見る機会が比較的少なかったのですが、

wikipediaの中に記載されていた中では他に『僕のいた時間』という作品と

『大切なことはすべて君が教えてくれた』が話の筋書きが好きだなあと

思ったものでした。作品は、何かの機会で借りられたりしたら見ようと、

後日の機会を伺いつつも結局作品として観ることは今日現在までなくって、

つくづく、もっとちゃんと観ていれば良かった、と思わされております。

 

わたしは、今回の三浦春馬さんの死因が、縊死であった、という事だけ

存じているのですが、心情的な背景などは当然ですが何も知りません。

ただ、1つだけ少し引っかかっていることがあるのですが、もしかしたら

昔にご本人が思われた、すっかり自信をなくしてしまったという事象が

その後も素晴らしいお仕事を続けていく中で、精神や身体的な負担として

大きくのしかかっていたんだとしたら、もう良いでしょう、というのが

縊死に至る直前までずっと苛まれていた心情だったのではと思います。

辞めたいと思った時に辞めていたら、生き続けておられたかもしれない、

というのはあまりに短絡的な考えかもですが、実際そのように思います。

あれだけ素敵なお仕事をされる方だったので、きっと真面目なお人柄で、

妥協がしにくい気質の方だったのかもしれません。それは仕事が凄いと

いう良い結果を作る一方で、本人としては凄く負担があったのかもと、

どうやっても戻せない結果になってしまってからですが、思います。

 

本当に、ただただ、どうして、という気持ちしかありません。

生きる希望よりも命を終えるというほうが楽になると思うくらいの、

大きすぎる絶望、と5月の悲しい訃報の時にも書いたものでしたが、

素晴らしいお仕事と素敵な容姿をお持ちで、お人柄も素敵だったそう、

という方々のお仲間からのお声を拝見し、何度も涙を零しました。

もしかしたら、ほんとにどこにも、本当の自分を出せなかった、

ということがあったとしたなら、あまりにもつらすぎる縊死です。

おつかれさま、というのもなにか違うし、ご冥福をお祈りしますも

まだまだ現実を受け止められず、使いたくないという気持ちです。

一つだけ言えることがあるとするなら、三浦春馬さんという方を、

わたしが生きているうちに知れたことをいつまでも忘れないで、

ずっとずっと覚えておくことが、惹かれた者としての出来る事の

ひとつなのかもしれません。寂しいですが、そう思うことにします。

そして、見てみたかった作品は、きちんと見ようと思います。

 

今はひとまず、『僕のいた時間』が、一番観たいです。

三浦春馬さんという「孤独の太陽」が存在したということを、

絶対に絶対に、忘れないように。

 

まさか、15年前の出来事の補足資料を、目の前でではなく、クラウド越しにお渡しする日が来るとは。

全ての資料を上げ終わって、そう実感しました。

 

直接の連絡が出来ていたところに既読がつかなくなってからの展開は、もしかすると想い人さんなりに

「このくだりは僕としては凄く残念に思ったんだけど、これ、気づいて貰えますか?」ということと、

もう一つ別の手段も比較的早く見てますよということと、そして、連絡が出来ていたところでこっそり

繰り広げられていた、とあるテーマについての話題をじっくり進めたかったというお気持ちについての

サインだったのかもしれない、と思いました。突然始まった戯れとか、もしかしたらと思いました。

これならわたしにも出来る創作があると思って、クラウドを立ち上げたのも良かったのかもしれません。

もしかしたら創作物へのリンクをシェアした時に、もう一度既読をつけてくださるのかもしれないとは

ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、希望的観測として思っていました。

そして、リンクを貼った投稿への既読がついて、わたしはそっと涙しました。

ただただ、ありがとうという気持ちと、ごめんなさいという気持ちで、泣いていました。

 

16年前の年末頃のわたしに、伝えたい。

趣味ですっごい結果を出したけど、その後すっごい悲しい思いをして、けど、それを出来るだけ媒体側に

ご迷惑にならないようにと思って秘密裏にお奉行さんに届けたぐらいで収めてたつらいことへの我慢は、

ちゃんと翌年の夏に、その悲しさが忘れられるくらい幸せな思いをして、密かに好きになる人が出来て、

少しずつ好きな人からもサインを返して貰えるんだっていうことを。

またちょっとその後に別のことでつらい思いもするけど、そのつらい思いがあることで憧れていた人が

一生の親友になって、んでその人とは11年後に結婚して、あと結婚までの間も密かに好きな人からも

ちょっとずつサインを返して貰えたりで、なんやかや幸せになっていくんだよ、っていうことを。

絶望に呑まれそうになっても、実家の家族や想い人、親友との記憶を覚えてて踏みとどまったことは、

少し歳を取ってから、全部幸せな結実になって帰ってくるんだよっていうことを。

 

新しい伝達手段の言葉を借りて、改めて想ったことを書いて、今日は終わりたいと思います。

スキです。ずっと、これからも。

 

 

珍しく女性歌手の推し曲のことを書いてみます。

歌い手さんだった方が最近YouTubeで復帰されたということがありましたので、

見たという報告も兼ねて、こちらに当時のむかしばなしを書こうと思い立ちまして。

 

愛内里菜さんの『Close To Your Heart』という曲が、凄く好きだったんです。

2001年リリースの曲だったのですが、19年経った今も、時々聴き返しています。

これを書いている今日、一番よく聴いていた当時のことを思い出していたのと、

昨日入った、とある悲しい訃報を聞いて思うことがあったのです。

 

楽曲はサブスクリプション配信がされていないようですので、

ひとまずYouTubeで見つけたものを貼っておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=l2gsDLv-Ehg

 

あと、歌詞はこちらへ。

https://www.utamap.com/showkasi.php?surl=68000

 

この曲を一番聴いていたのは、リリースされたばかりの頃よりも、

気に入って聞き始めてしばらく経った2007年の冬頃でした。

京都の宇治に一人暮らしを始めて、半年ほど経った時期です。

この頃、わたしは突然重くなった婦人科疾患と、神経症を患っていました。

そしてその精神的なつらさを共有していた親友と距離を開けていた頃で、

同時に、密かに想い続けていた方とも、一番距離が開いていた頃でした。

 

親友、というか現在の夫とのことは以前に書いた投稿がありますので、

その後の展開などを含めてこちらを見ていただければと思います。

後の展開を思うとこの別離は、結果的に一時的な別離ではあったのですが、

この当時は本当に永久の別れになると思っておりました。

https://ameblo.jp/9rb/entry-12559525286.html?frm=theme

 

わたしは、以前、この頃の絶望から救ってくれたのは、

その年の秋頃に知った9mmの『Mr.Suicide』と書いていたのですが、

逆に絶望への引き金を引いたのが、この曲でした。

不安や、出せない勇気を持ちながらも愛を歌い上げる歌詞のこの曲が

本当に凄く好きだったのですが、同時に、距離を開けなければいけなく

なってしまった状況をどうしても受け入れることが出来ずに苦しくなり、

必要だったとはいえ親友への告白をしたことを激しく後悔していたり、

また遠く離れた想い人へも伝達手段が何もなくてどうすることも出来ず、

今までシンパシーを感じて好きだった歌詞が、逆に苦しい気持ちへの

畳み掛けになるような文章に見えてしまっていたのでした。

 

「言い過ぎた言葉言えない言葉に頬伝わる涙」

「悔しかったよ本音を伝える勇気がここになくて」

「支える力になりたいと思うたび無力さに負けて」

「一人の夜に全ての不安と戦っているときも 君への想いは揺るがない」

「君を愛することだけでも生きる価値になっているから」

 

という歌詞が特に当時凄く刺さっていました。

伝えて上手く行かなかった結末も、伝えなかったことで離れた結末も、

気持ちが揺るがないがゆえに、つらかったものでした。

「愛することだけでも生きる価値になっている」のは重々思っている、

けど今は、それ以上に自分に生きる価値がないと思ったものでした。

実家から離れて一人の部屋で過ごすと外からの声が入らないので、

神経症も相まってどんどんと悲しい考えが押し寄せていたのでした。

それでも実家からの母や趣味の知人などの来客があった時には極力、

そんなふうに悩んでいることも見せたくなかったものですから、

こんなに思いつめていることを報せも出来なかったりしていました。

もう少し器用な性格をしていたら、この辺も違ったんでしょうね。

この頃の絶望感は引き続き強くはあったのですが、先の文章にも

書いていたように、引き続き距離を置きながらも続けていたSNSで

親友が生き延びていて便りをくれていたことや最終ログイン時間が

直近の時間であったというログが、もう少し生きることへの理由に

なったりしていたのでした。

最終ログイン何分以内、というその文字が、どれだけ救われたか。

そのくらい、思い詰めていた、本当につらい時期だったのです。

そしてそのつらい時期の中で、絶望感を歌い上げる歌詞の9mmと

SNSの中でたまたま出会ったことで、共感から次第に興味を持ち、

どっぷりとはまって追い続けて、生きる理由を得られたのです。

 

というようにわたしの悲しい記憶はその後少しずつ薄紙を剥ぐように

ひとつひとつ取り返せていったのですが、これは本当に恵まれた事で、

一歩間違えれば、昨日報道されていたあまりにも悲しい訃報のように、

絶望感に苛まれてひっそりと生涯を終えて居たのかもと思っています。

当時、何度となく京阪宇治線の線路を長時間物思いをして眺めたり、

あるいは剃毛用の刃物を見てこれをすっと引けばという事も思ったりと

何かと絶望感からの一歩を踏み出すことばかりを考えていたのですが、

結局は「親より先にだなんて」「想い人の故郷を汚してはいけない」

「また会おうって親友と約束したのに」というその気持ちだけで、

何とか思いとどまっていたものでした。

亡くなった彼女にもきっと、本当は思いを留まらせる大事な人々も

きっと居たに違いないと思います。ファンも多い方だと思いますし。

けれどそれでも踏み出してしまったのは、あまりにも心無い声のせいで

生きる希望よりも命を終えるというほうが楽になると思うくらいの、

大きすぎる絶望に呑まれてしまったからなのではと思います。

どうして、あんなに可愛らしい、まだまだわたしなんかよりも希望が

いくらでもあるはずの若い女の子が、こんなことになったのか。

あまりにも悲しすぎる結末です。

 

わたしが何かできたのなら、差し伸べて声を届けたかった。

それこそ、『Close To Your Heart』という楽曲の意味のように、

酷い誹謗中傷への気持ちの持ちようだけでも、経験則を話したかった。

亡くなってから彼女の存在を知ったということが本当に悔しいです。

もしかして配慮が足りていなかったかもしれなかった、と思っていたことが少し当たっていて、

えっこれ、そうだったのか、っていうことも判明して驚いた、というのが、今の正直な気持ちです。

 

いずれにしても、想い人さんのこだわりを以前から知っていたのであれば、あの話題を差し金処で、

それも1対1での話題にするべきではなかったというのを、少しずつ頂いたヒントで理解しました。

無意識の悲しい言葉ほど、たちの悪いものはないと自覚した次第です。申し訳なかったです。

比較的、推している暦としては長い部類に入っているであろう立場だし、自分なりに想い人さんの

お仕事へのこだわりも承知しているつもりだったのに、情けない限りです。

 

伝達手段、色々試みていました。

そこまで見て下さってなかったら何日か進捗はかかる、と思いつつ。

でも、どこかのタイミングで気づいて下さったらと思ったことが、こんなに展開が早くなるとはで。

新しい場所を作ってくださったのが、早く過ちに気付けたというのはあるかもしれません。

ずっと「太客にはなれない」と思っていたことや、「あくまで秘めてで」と思っていたことも、

同時に解消できるような新しい場所が出来て、心置きなく差し入れを入れられる、と試みたことが、

まさか、解決策につながるとはで、正直ちょっと予想外ではあったのですが…。

新しい場所からいただいたお便りで、私自身が避けられてるのではないというのが判ったのもあり、

そうすると、話の内容だったかもしれない、と思ったのが、探り当てたきっかけになったのでした。

24時間で消える便りは別途まとめてて保存出来ているので、展開の時系列を改めて見てるのですが、

こんなに早く、反応があるとはほんとに思っていなかったので、まだ色々信じられていないです。

もっと表向きの呟きどころのほうも、そこまで見てくださってるとも思っていなかったですし。

 

ただただ申し訳ない気持ちと、まさかのことが分かって戸惑ってる気持ちとでぐるぐるしてます。

新しい場所が出来たことや、今日のお話とかも思い返すと、ここもきっと見て下さったんだろうと。

 

ちょっと今日は、色々な想いで寝付けなさそうです。

ごめんなさいとありがとうが、いくつあっても足りないくらいの夜になりそうです。

ここ最近書いている想い人についてのことなのですが、またちょっと思ったことがありまして。

今日、つい最近になってよく直での遣り取りをするようになった想い人さんのご贔屓の人から、

とあるクローズな集まりに関してのお話を聞かせていただきました。

 

ご贔屓の人、とざっくり書いてますが、その人とわたしの年齢差は完全にわたしがその人の親、

ってくらいの年齢差だったりします。ラジオでお名前を知って、相方さんの作業部屋で交流して、

そこからTwitterで更に仲良くなった感じで。いや、むしろわたしは、子供に居ても自然な世代の

しかも可愛らしい男の子が想い人のご贔屓である、というのが嬉しかったりするのですよ。

昔とことん現場に通っていた頃にはたぶん2歳とかそのくらいの世代の子なはずなんですけども、

その頃の思い出を少しずつDMで共有し始めていたりします。わたしが出逢ったきっかけも既に。

言うても、もともと親友である夫にも、そこまで私の推し具合って共有は出来てないですし、

今日ちょっと茶化して書いたのですが、女友達が憧れている人にバレンタインの告白をするのを

傍らから「がんばってー!」と応援するような気持ちにも似た思いを持っていたりします。

こう書いてて、わたしはこれっぽっちもそんなシチュエーションに遇ったことないんですがね。

そもそも女友達が、セミプロにしている趣味の友達に出会うまで皆無だったりしましたし。

昔に現場で出逢った推し仲間だった方ってみんな女の子で、なかなか抜け駆けしづらいっていう

独特の空気感があって正直ちょっとやりづらかったりしたんですけど、男の子ならそういうのも

全然心配しなくていいよなあなんて思っていたりします。心置きなく想いを共有できそうでね。

まだちょっと、一人の思い出深い人として好き、というところは話せてないんですけども、

ゆくゆくこの辺も、もう少しその子が大人になってからでも話せたらと思っています。

 

想い人さんへは本当に、ある意味夫にはない、独特の想いを持ち続けてたりするのですが、

それとはまた別に、後輩の方にも良いなあと思う方は居たりしますし、面白いのは面白いしで、

まああの、自分でもなかなか気が多い性格だなあと思ったりしてしまうことはあるのですが、

これって、もし想い人がある程度こちらに関心があったりとかするのであれば、もしかしたら

あっけらかんと「この後輩さん面白かった」と書いてしまうのは、酷だったりするのでしょうか。

そこまで、わたしに大して関心や興味がないと思ってるので、気にしすぎかもしれないですが。

そんなにね、俺以外のことを喋るなというような、余裕がない方だとは思ってないんですけど、

まあ、万が一、くらいの可能性でちょっとこういう事も考えていたりしてます。

 

わたしは正直、想い人の後輩さんだったり仲良しさんだったりの話って、したいと思ってます。

仲良しさんのところで想い人のお話が出たら、SNSでこういう事があったって書きたいですし、

そういう共有もできれば想い人にはしていきたいって思っていたりするのですよね。

そういう話で、想い人になんらか表現の手段とかのヒントと思って貰えるなら色々話したいし、

たとえそれが後輩さんの現場だとしても、あくまでエンタメとして面白かったということを、

一人の、想い人へのこんな事に興味がある、というお話として、話したいなと思っています。

わたしが出来ることは、なかなかお金を落とせないとなると、こういう提案だったりあるいは

なんらかアイデアにつながる情報になるかもしれないお話を送ることしかないと思いますし。

だけどそれが、万が一、できれば他の人のことを書かないで、ということになるとするなら、

あんまり他所の人のお話のことは送らないほうが良いのかなあ、と思ったりしていました。

 

正直、少なくとも表向きのSNSで想い人のことばかり書いていかない、ということに関しては、

ちゃんと、わたしなりに理由があったりするんですけどね。

端的に言うと、あまり想い人のことばかりを書くと、夫を心配させてしまうと思ってるんです。

アカウントを分けないというか別に作ったりしない理由も、サブ垢でだとコソコソ感があるし、

あくまでわたしは一人しか居ないし、一人の人として興味が多岐にあるというのを、SNSでは

残していきたいと考えているから、なんです。実際ひとつのことにしか興味がないというのは

個人的には、人間として幅が狭い、と考えて居るというのもあったりするので、極力ですけど、

色んなことについて興味があって、見聞を深めていっているのをSNSでは残したいと思ってて。

とは言いつつ、最近はすっかりわたしと同郷の、想い人の後輩さんのことばかり書いてますが。

実際、面白いししょうがないですよ、こればっかりは。このくらいは赦して頂きたいです。

ああ、でも、こないだ想い人への差し金処で、後輩さんのことを書いたりしてしまったっけ。

もしそれが引っかかってるのであれば、ちょっと配慮が足りなかったかもしれません。

いやでも、そんな余裕がない方だとはほんとにこれっぽっちも思ってないんですけども。

 

なんだか考えがあんまりまとまってないですけど、ちょっとそんなことを思っていたりしました。

クローズな集まり、お話を聞いてると行きたくはあるものの、半分くらい付き添いがほしいと、

ちょっと思ったりしました。夫か、あるいはまたそのご贔屓さんに来てもらうとかで。

あんまりこう、完全に初対面の贔屓同士が顔出しをして交流というのに抵抗がありますもので、

知り合いを5人集めて来ていただく、とかの場所でだと、もう少し抵抗がなくなるかもです。

けど、こういう「知り合いとでが良い」という人とでは、会の趣旨にそぐわなさそうなので、

やはりこちらも、想い人さんにはご協力が出来ないなあと思った次第なのであります。

せっかくのゼロ距離にも近い場所を設けてくださってるのに申し訳ないんですけどね。

 

いやほんと、いよいよ、わたしにできることってなんなんだろうなって思います。

相方さんとか、すっといいねやお返事を送ってくださるのでわかりやすいんですけど、

想い人さんはそういったことがあんまりないので、なんにも反応がないとなると、

むしろあえてチャットでも拾わないようにしてるのかしらとか思ってしまうのですよ。

避けてたりするんであれば連絡しないようにしたほうが良いんかなとも思いますし。

あくまで秘めてのものでないといけないって思っているので目立たなくていいんだけど

梨の礫はそれはそれで必要とされてなさそうねって思ってしまいますものでね。

少しばかり、お休みしたほうがご迷惑にならないのかもしれないとも思いますし。

 

ちょっと、考えないといけないんですかね、いろいろと。

先日書いていた、想い人への「訣別をするのは、むしろこちらの方」という事への答えというか

結論のようなものが、この2ヶ月くらいで、はっきりと出たような気がしている今日この頃です。

此度の疫病(というワードがすぐ浮かぶくらいには、最近は想い人の後輩さんの話し言葉の雰囲気が

かなりお気に入りだったりします)で予定していた観覧や接見への予定がなくなってしまい、

代わりにオンラインでの催しが方々で行われるようになって、精神的距離感が変わったことで、

「わたしは、差し金は出来ても、太客にはなれない」と思うようになっておりました。

 

ここでいう「差し金」は、文字通りお金を差し出す、という意味ではありません。

(意味がわからない方はググってください。ここでは、漢字ペディアの②の意味で書いています)

昔のことを思えば、差し金が出来うるオンラインツールが出来るようになった昨今は有難いですけども。

差し金が出来るツールの有難さについては、同時に、我儘な客からも同時に飛んでるのだろうな、と

昨今の配信方法のちょっとした変更に対して、正直なところ、憤りにも近い気持ちを思っておりました。

あんな事よう本人に飛ばすよなって。こんなん言い出したらきりがないだろうよ、と。

まあ、初回は、都合つけて欲しいと仰った方の時間を反映してない時間からで少し溜飲は下がりましたが。

ちょっとした変更は、「僕の都合を伝えますね」という意味であれば、なんも文句はないです。

それならばむしろ「教えてくれてありがとう、都合空いてたら行きます」くらいで、ありがたいので。

基本的に配信は、「空いてるタイミングでするもの、客は都合が空いてたら行くもの」だと思います。

「こっちに都合を合わせてよ」なんて、客から頼むものでは決してないです、ほんとに。

 

太客にはなれない理由は、主に「独身の時とは課金への事情が変わった」というのが大半なのですが、

それでも、課金へのボタンクリックを躊躇うようになってしまったというのは、そういう事なんです。

これ、もうちょっと方法なかったりしたのかな、それならもう少し直接届けられるのにということや、

色々複雑なことを思ってしまって。思わず「太客になるには歳と経験を重ね過ぎた」と感じました。

(というくらい、お知らせがあってすぐ見に行きました。購入ボタンも5つとも生きてたくらい即でした)

正直、5つ即完ってのを見て、「買えた人、自由というか、なんというか」と思ったりしたものな。

ちょっとそのくらい、うーんと思ったのは事実です。申し訳ないんだけど、これはしょうがない。

想い人の事後のつぶやきも正直「ドンペリ入りました」くらいの雰囲気に見えたりしたのですよ。

こういう大きな買い物は、「買った」って本人に飛ばすのも野暮だよねって思いましたし、

引用で取り上げることもないほうが雅やかだったんじゃないか、なんてことを思ったりしました。

品がある雰囲気の方だったんで、尚更「あれっ」と思ったのですよね。個リプでええのにね、って。

あと、創作する仕事の人として「えっ、それ手放しちゃうんだ」というのもちょっと思ったりもして。

もうあの原画でグッズは作らない、あるいはもうスキャン済みで賄える、ってことなんでしょうね。

他にも、額装済みで送るんだ、ということも。送料とか、ガラスの覆いは割れやすいとか、配送業者とか

色々なことを思うと、出来ればこれは送ってこられるよりも現場で持って帰りたい、と思ったのです。

今の事情では無理だろうけど、個展があってその場でご本人から受け取って持ち帰るのが理想だなと。

販売されていたもの、確か2月の展示では販売ではなく展示だったはずなので、今回出てるのを知って、

そして思った以上の値段(安いという意味です)で、色々と「うわあ、まじか」って思ったのですよね。

これ、手渡しなら倍の値段付けても買い手が居ただろうにな…ってのも思ったりしましたし。

追加販売もあるようなんですけど、出来れば推しの画は出ないで欲しいなあ。

洗濯機のが、Twitterでもやりとりした思い出の絵なんで、置いといていただきたいんですけどね。

まあでも、そんなのを言う方がよっぽど困った客ですね。悶々と過日を見ることになりそうです。

 

ということがあって、わたしはあまり客として落とせるものを落としてない、むしろ落としどころは

だいぶ実生活重視で選ばせてもらっているなあと、実感した次第でした。

これはでも、想い人に限らず、好きなバンドの物販のときもそうだったので、根本的なものと思います。

また、わたしはやはり、想い人には、物凄い出逢い方をした、素敵な方という気持ちが大きくあって、

そこには実際の職業は関係していなかったのかもしれないなと、この2ヶ月ほどで実感しました。

実際のお仕事も凄いお見事で何を見ても楽しいのだけど、同時にどこかで、偶然での想い人が蘇って

「いや普段ここまでぐいぐい行く人じゃないのよ」って考えたりすることも度々あったりもしてて。

これは今に始まったことではなく、昔に1年ちょい現場に通っていた時にも思っていたりしました。

なので私の中では、一人の人に対して二人の人の印象があるような、そんな感じなんです。

二つの印象があるということだけ、そういう意味では恵まれているのかもしれないのですが。

 

なのでわたしに出来るのは、表立って「お助け申した」と言うようなこともせず、あくまで密かに

「しかと拝見させて頂いた、此の様に感じ申した」という感想を送り続けることかなと思っています。

(書いてて思ったけど、後輩さんのこの口調、なんらか表現をぼやかすのにめちゃめちゃ便利ですね)

もう亡くなられた、優しいご婦人なら、どう思われるんだろうな、とちょっと思った次第でした。
ここまでめんどい想い方の客は、かえってご迷惑になりますか、って昔みたくお話出来たらなって、

どうやっても叶いもしないことをちょっと思ったりしました。

今のところ可能性はほぼほぼないけど、もし此度の疫病でわたしが居なくなるようなことがあったら、

去年旅立ってしまった両親の祖母と、優しいご婦人に会いたいかもしれない。

忘れてはいけないけど表立って書けないような思い出、めちゃめちゃあるし、報告したいです。

そのくらい、私の想いは秘めてのものでないといけないなと思った、流行り病の昨今の午後でした。

訣別をするのは、むしろこちらの方だったかもしれない。
これが、想い人を見終えた直後に思った、正直な気持ちでした。

久しぶりに舞台で見る想い人は、3年前に今日の位置より離れたところで見た時より、
落ち着きが前に出たような印象でした。良い悪いではなく、安定感が出たと言うか。
それは、舞台の客層に合わせたことなのか、あるいはお子さんがおいででの変化なのか、
はたまた私が勝手に色んな追加情報を知った上で感じたことなのかは判らないのですが。
これを、前になんにも遮りがなく、また、遮りがないだけでなく、左右の位置にしても
ほんの1人2人真ん中から演者さんから見て左にずれただけの位置で観られて良かった。
それも、想い人の誕生日の直近の公演でなんて、これ以上の贅沢はないと思いました。

同時に、もうこういう前提で来るのは、この過去一の特等席での観覧で最後にするかと、
これ以上凄いところなんて今後取れないだろうからさ、と、いう気持ちも芽生えて。
どこかで夫に、こういう行動を続けているのは、申し訳ないと思っていたこともあり、
その区切りのタイミングとしては、これ以上ないだろうと、思いました。
少なくとも、かつてよく観に行ってた頃に、想いが前に出ていた見方をした事とは、
今日は良い意味で訣別が出来たように思えました。純粋に舞台として、楽しかった。

聖地巡礼に出た日の朝は、先にも書いたように「永訣の朝」としようと思っており、
永訣とするべきものは、「想い人を恩人として想い続けること」と思っていました。
けれどそうするには、想い人との間で経験した物凄い出逢い方を無いものとするようで
どうしたものかと考えてたところに、宇治神社での、とあるとんでもない偶然があり、
永訣とすることを、思い直そうと思ったのです。
それはまるで「全然、忘れようとしなくて良いんだよ」と言われたかのように思えた、
あまりに嬉しすぎた偶然でした。ずっと、私に記憶する能力が残ってる間だけでも、
絶対に忘れてはいけないし、憶え続けておかなければと思ったのです。
今まであまり、「魂に呼ばれた」とかの想いは信じている方ではなかったのですが、
この日の出来事では、かつて3回ほど訪ねた、ある優しいご婦人の姿が浮かびました。
度々訪れるたびにお孫さんのことを、思い出話として聞かせて下さったご婦人。
お孫さんが少し危ないお仕事をされてたお話の時に、ポツリと聞かせてくださった、
「怖い思いしてねぇ、気ぃ弱い子やのに」という声が今でも忘れられなかったりして、
気が弱い方が気を張って仕事をするのってどれだけ大変なんだろ、と思ったものでした。
想い人も比較的、気が強いかたではなかったので、無理してはるのかなと思ったりして、
ご婦人のお話を聞いてからは想い人に「無理しなや」て思うようになったものでした。

そのご婦人はもう既に数年前に他界されていたということは存じ上げていたのですが、
かつて訪れていた場所には今回、そういえばまだ看板とかあったりするのかもと思い、
何となくここだったという記憶を辿って足を運んでいました。
看板はなくなっていて、代わりに飲食店になっていたので、今回はお昼ごはんを戴きに
訪れ、その中で、先の住人であったご婦人のお話も少し聞かせて頂きました。
まるで、想い人への聖地巡礼と言うより、優しかったご婦人を偲びに来たようでしたが
後からお店の奥からおいでになった、お店のご主人のお母様という94歳になるご婦人に
「もしまだご存命だったら同い年くらいだったかな」と思ったりなんかもしました。
他にも界隈には、矢鱈と聞き覚えのある物事が随分溢れていた偶然もあったりして、
もしかしたらすべてはご婦人が、この偶然を引き合わせて下さったのかもと思いました。
そうなると、やはり、嬉しかった記憶は、絶対に忘れてはいけない。
むしろ、訣別するのは、余計な気持ちを持って想い人を見に行くことだと思ったのです。

「こんな重たい想い方は、迷惑になる」
その気持ちは舞台を見終えてもやはり抜けずではあったのですが、もしかしたらそれも
「そんなんなんぼでもおるし、気遣わんでええ」ということなのかもしれません。
けどやはり、もう少しこの気持ちについては、ゆっくり考えることにします。
もしもまた、今回くらいの特等席を当てることが出来たら、その時にはまた改めて、
想い方について考えて、向き合うことにしたいと思います。
新しくまた一つ出来た、絶対に忘れてはいけない優しさを胸にして。

聖地へ行って参りました。

なにも、訣別する必要なんてない。

そう言われたかのように、今日は、数々の出逢いがありました。

 

平等院がたまたま「池の水ぜんぶ抜く」みたいな珍しい状態だったこと、

平等院通りの入口のところのご贔屓の風呂敷屋さんが健在だったこと、

想い人のおばあちゃんのお店の跡地に出来てた天ぷら屋さんでの歓談、

天ぷら屋さんのご主人に教えて戴くまで知らなかったお不動さんの節分会、

そして、物凄いいろんなところで長居してからの、とんでもない偶然。

あまりここでは詳しくは書けないのですが、どれかひとつの滞在時間や

訪れるタイミングが違っていたら、この数奇の遭遇はありえなかった。

まるで、かつて想い人との間で起こった、あまりにも凄い偶然のようでした。

何に導かれたのかは分からないけど、何をどうしてこうなったのやら。

ただただ、感謝するしか、ありません。

 

明日、過去一の特等席で、泣かないようにだけ気をつけます。

本当に、今日の聖地巡礼は、どの瞬間も一生忘れてはいけない旅路でした。