12月15日 | 徒然むかしばなし

徒然むかしばなし

蝦夷地のほぼど真ん中に棲むクイズとロックバンド好きの主婦による、昔の思い出話をまとめたブログ

2007年の12月15日。
わたしは、命の恩人とも言うべき親友に、
永久の別れになるかもしれない告白をしました。
日本列島の半分以上を隔てた距離同士でいた、親友に。

親友と私は「たまたま性別が違うだけだった」と思うくらいに、
精神的に一番弱いところの理解と共有をしていた間柄でした。
出来たばかりのSNSを使って週2~3、巻物のような長さの便りで
凡そ口頭では伝えられないくらいのありのまま思っていたことを、
遠く離れた一番近い親友に、送り続ける日を過ごしていました。
日々の、ちょっとしたことや、悲しい出来事、少しだけ楽しい事、
そして、「生きるのしんどいね」ということを送っていました。
お互いに、希死念慮を思うくらいにつらい出来事に遭っていて。

たぶんきちんと思い出すなり当時のログを見れば分かるのですが、
彼のほうのその頃のつらい記憶についてはここでは割愛します。
大まかにだけ言うと、考えられない程の裏切りに遭っていた、とだけ
こちらには残しておきます。裏切りをした人物もよく知っていたので
彼女ならまあやりかねないけど酷い、と送ったりもしていました。
私のほうは、初めての一人暮らしを憧れの場所で始めたばかりの中で、
順調に少しずつゆっくり、自立心を形成していくはずだったところを、
不慮の疾病と人の裏切りに遭い、心身ともにボロボロになっていました。
疾病自体の身体的なつらさもさることながら、疾病の症状を抑える為の
鎮痛剤的な薬が合わず、朝に出勤するはずの時間に起きられないなどで
職場に迷惑をかけていたことに申し訳なくなって精神的に苦しくなり、
精神的な疾病も併発してしまった有様だったのですが、精神用の投薬も
身体に合わずしんどい、という状態に遭っており、最悪の状態でした。
とにかく朝や昼にきちんと起きていられないということがつらすぎて。

またこの頃いた一人暮らしの部屋は、社宅として借り上げて居たため、
こんな体調の状態でありながら、退職が許されない状況でもありました。
とてもじゃないけど通勤が出来ない体調にも関わらず、即退職でもすれば
借り上げ上の規則で即退去をしないといけなかったのです。
そうなるとそれも大きなお金が必要ということもあり、難しい状況でした。
結局、程々に通勤をしながら療養をする、という選択をしておりまして。
私もなかなか不器用なもので職場にここまで酷いことをきちんと話すなり
しても良かったのかもしれないのですが、知らせたことにより退職という
選択肢を取られる可能性を考えると、全てを伝えるのに躊躇してしまって。
憧れの業界にやっと入れて貰えたという感謝も会社に対してあったので、
どうにか最後の最後まではヘルプを出したくなかったと思っておりました。
また、こんな状況になれば、親元に連絡をして即時帰郷をするとかでも
すればよかったのかもしれなかったのですが、どうしても実家を出たいと
大見得を切って出たことも有り、とてもじゃないけど頼れなかったのです。
かといってどこかにお金を借りるということもしたくなかったりしたので
やむなくこの選択をしていました。もっと何か、方法はあったのかもですが、
当時の私はもうこうするしかない、という気持ちでいっぱいだったわけで。

なので、当時は夜になって少しだけ元気になったところで親友に連絡をし、
つらい状況であるということを吐露して、慰めてもらっていたものでした。
身近な人よりも遠く離れた心の友である間柄の人にのほうが話しやすい、
という考えは少々あったかもしれませんが、親友の場合は身の回りの人より
精神疾患に理解が深かったのが、相談相手としてかなり助かっていました。
まさに、親友との連絡は、朝や昼のつらさから来る希死念慮から「踏み出す」
という選択肢を食い止めるための「いのちの便り」だったわけなのです。
本当に、この時、親友の存在がなければ、今こういうふうに当時のことを
振り返って書くようなことも出来なかったのでは…と思っています。
なかなか遠い距離に居たのでそうそう逢うこともままならなかったのですが、
一年に1回、11月から12月あたりの時期で、親友の地元で逢うこともしました。

きっかけを話すとこういう流れになるのですが、やがて、わたしはその親友を、
親友ではなく、ある知らせを聞いて、異性として好きになってしまいました。
その知らせは決して良い知らせではなく、親友が居なくなっていたかもという
不慮の事故の知らせでした。幸い大きな怪我もなかったようだったのですが、
親友はその事故がきっかけでさらに希死念慮を強くしてしまったということで
そこからかなり塞ぎ込んだ日記や便りを送ってくるようになりました。
そして、わたしは、その知らせを聞いて、「この人を失いたくない」と思い、
同時に自分の中での親友の存在の大きさを実感したわけだったのです。
親友というよりも、一人の異性として、人間として、失いたくない、と。
そして、今まで遠く離れたことで逆に話しやすかったという実生活での距離を、
「会いたい時に会いに行けない距離」と思うようになり、苦しく思いました。
路線図の端っこを見ても、まだまだたどり着けない遠さを実感してたり、
季節の変わり目のたびに、向こうはもっと冷えるんだろなあと思っていました。

実は、親友とはもともと最初のきっかけがお互いに「TVで観たことがある人」
という間柄で、親友としてやりとりをする前にも新潟で開催された集まりで一度、
お互いに相手が居る状態の中で、同じ業界の人同士として挨拶をしていました。
親友がわたしを当時どう思っていたのかについては今も確認してないのですが、
わたしのほうは、予兆として、フジテレビでの番組で親友を初めて見た時に、
「こんな人がいるのか」という、憧れのような気持ちを強く持ちました。
親友は、わたしから見れば、同い年の男の子の中でも強くて、しかもさわやかで、
自分の身近なところにはまず居ない、というくらいに魅力的な人でした。
同時に、きっともてるんだろうな、あたしなんて相手にされることもないだろな、
ということを、当時、高校生なりにいろいろ思ったものでした。
いまでも自己肯定感が弱いわたしなのですが、高校生のときは、今以上に自分に
自信なんて持てなかったものでしたので、まず手の届かない人だと思っていて。
なので、初めてご挨拶をした時も「本物だ!」ということを思っていましたし、
けど言うてもファンの人というよりもプレイヤーとしてお会いしたということで
「本物だ!」とは思いつつも、極力冷静に挨拶をしたのを覚えています。
あまり「ファンなんです!」という雰囲気を出したくなかったのもありましたし。

それが、SNSを通して再会して、しかも親友にまでなれていたことだけでも、
その当時、親友に憧れていただけの高校生だったというわたしから見てみれば、
すごい大進歩ではあったのですが、人間というのは欲張りな生き物であるもので、
そんなただただ憧れていた人に「あなたを失いたくない」という告白をするのは
なんとも無謀で、不躾で、随分と烏滸がましいことをしたものでした。
でも、わたしには、この方法しか、ないと思ったのです。
なぜなら、好きだという言葉を伝えたいというよりも、大きな目的がありました。
それは、希死念慮からくる、「一歩」を踏み出してほしくない、という意味で、
「あなたに生きていて欲しい」という、最初で最後になるかもしれない告白をする
必要があったということでした。
親友への便りには、「遠いところに住んでいるし、何か助けられないかって思っても
すっと飛んでいけないけど」「わたしがあなたのことを好きでいたところで、
何にも出来ることなんてないかも」と、このあたりのことについては書きました。
そして、「でも、遠く離れたところで、いつでも、あなたのことを案じている人が
ちゃんと居るんだよってことだけでも伝えたかった」と、異性としての告白について
結びを入れたものでした。今思い返すと、本当に激重な告白だったなと思います。

また、「本当に今日まで、親友で居てくれてありがとう」ということ、それと、
「あなたのことを好きになった時にはもう、親友では居られないと思ってたので、
これからは親友としてではない間柄になる」、「これから今まで以上に疎遠に
なったとしても、いつでもあなたのことを案じていると思ってください」と伝え、
最後の最後に、おそらく今は、この選択を下さるのは1%もないと思いながら、
「もし、今よりも心の距離を縮めることができる間柄になることを許してくれるなら、
あなたの、一番の理解者である、彼女として、あなたを理解していきたい」と、
これもまたかなり重たい告白として、書き残しました。

そして、その機会が叶う日は、近々には望んでいないということも伝えました。
この先、心が整ってからで良いので、ほんの少しでも可能性があるなら、と。
全く対象外であれば、潔くあなたから離れるつもりで居ることも考えているとか、
今以上の関係を全然望んでいないのなら、あなたに会いにくることも、もうしないと、
色々な可能性を提示して、告白しました。おそらく、親友は何も考えられないくらい
自分自身を生きるのに精一杯だと思ったので、後々に文字として書き残したものを
読み返してもらって、ゆっくり考えてもらいたいと思ったのです。
そうすることで一日二日でも「一歩」の可能性を先延ばしにする目的がありました。
どういう感情でもいいから、とにかく、希死念慮を思わせたくなかったのです。
かなり、大きな賭けではあったのですが、とにかく心を空っぽにさせたくなくて。
度々聞いていた話から、何も考えない時・何もタスクがない時にふっと起こるという
親友の証言を鑑みての一世一代の奇策として、この告白をしたのでした。

結局、この時の結末は、「今は、彼女としては見られない。親友で居て欲しい」という
現状維持のままとなったのですが、その後振ったフラれたについての気持ちのほうで
わたしに「申し訳ない」という気持ちが出来たと、親友は当時話してくれていました。
その一方で、希死念慮らしい文面が、文章からなくなったことも同時に確認していて、
親友が自分でその事に気づいていたのかはわからないのですが、わたしとしては
「振ったフラれたについては、積極的に忘れて」「わたしも重い話してごめんね」と、
親友からの声に返事をしていました。こういう展開になってでも、生き延びてほしくて
ひとまず回避できただけでも良かった、と思ったものでした。
その後もちょいちょいは希死念慮の内容が送られることはあったりもしたのですが、
不慮の事故後に貰っていた親友からの便りの時に比べると随分と頻度は減ったので、
これはこれで良かったのかもしれないと、そう思っていました。

もしかすると、わたしにはもうあまりしんどい話を書けないと親友が思ったという

可能性があったかもしれないのですが、ひとまずはそういった状況でした。
わたしはわたしで身体の状態は引き続き悪くはあったのですが、親友が生き延びていて
便りをくれていただけでも、まだもう少し生きることへの理由になっていました。
会うことができなくても、SNSや風の噂で親友が元気にしてることを、できるだけ多く
自分が生きているうちに聞けたら、という気持ちで生き延びていたのでした。

そこから、あるきっかけで2年ほど疎遠になりまして、絶望感に苛まれていたわたしは、
絶望感を満たす音楽を欲してSNS経由の音楽ツールを知って、あるバンドを好きになり、
しばらくは絶望感をバリバリ抱えながらも、絶望感を満たす音楽のおかげで希死念慮を
思うことをしなくなりました。ある1曲に、すべての心を鷲掴みされたおかげで。
その1曲をくれたバンドというのが、9mm Parabellum Bulletというバンドでした。
『Mr.Suicide』という、まさに希死念慮の塊のようなタイトルのその曲に強く惹かれ、
やがてこのバンドのことをどんどん知りたいと思い、当時発売された音源を片っ端から
買い揃えて、深く聴くようになっていきました。曲も格好良いですが、とにかく歌詞が
強く憂いを抱えてる自分に、強く刺さるなと、当時かなり感じていました。

この詞を書いた人は、一体どういう生き方をしてこの歌詞を書いたのだろうか、と

思わず気になってしまうくらい、当時のわたしの悲観的な感情をすべて悟られたような

歌詞に強く惹かれ、この歌詞を書く人の他の作品も知りたいと思い、聴き出しました。

このきっかけで知った他の曲としては『Psychopolis』と『Heart-Shaped Gear』を

今でも好きで、度々思い出すたびに音源集から引っ張り出して聴いています。

思い返すとこれは、わたし自身が生き延びるための「いのちの活動」でもありました。
ちょうど親友と疎遠になっていたこの頃は、9mmのライブ鑑賞に明け暮れていました。
とにかく、自分自身と向き合ってはいけない、何でも良いからいま夢中になれるもので
心を満たしたいということを思っていました。そこにすっぽり嵌ったのが9mmの曲で、
現在は当時よりも明るい方向性の歌詞が多くなりましたが、当時の9mmは絶望感や無力、
倦怠を思わせる方向性の歌詞が多くありましたので、心を揺さぶられて聴いており、
ライブで同じように9mmを好きな仲間が出来たことで、ひとりじゃない幸せを感じました。
幼少や高校生までの間にかなり暗い過去がわたしにはあったので、親友以外にはなかなか
心を開くことが出来なかったりしたのですが、9mmを通じて知り合った友達の中でひとり、
とりわけ、実際の自分の妹と同い年の女の子が、うまくわたしの心をこじ開けてくれて、
丁度良い接点で接してくれていたおかげで、寂しい思いをすることもなくなっていました。
彼女とは現在も、違うアーティストを好きになりつつ、音楽好きとして仲良くしています。
そのおかげで親友とは疎遠でありつつも、2年ほどは生き延びていたのでした。
合間でちょいちょい、親友の生存確認を、SNSのログイン時間で確認をしたりしつつ。

やがて、またとあるきっかけで再び親友との接点は濃くなったのですが、その頃には
最初に使っていたSNS以外にも便利なSNSが普及しはじめておりました。
昔は週に2~3だった長い便りが、ほぼ毎日のチャットでのリアルタイムの便りに
変化していきました。距離もその頃は引き続き勤めていた会社の転勤で、少しばかり
親友の居住地に近くなったりもしたのですが、とにかく実生活での距離に関係なく、
毎日いつでもリアルタイムで連絡がつく状況が本当にありがたいなと思ったものでした。
同時に、こんなふうに実生活での距離に関係なく精神的な近さを実感できるまでに、
親友が生き延びていてくれていたことを、嬉しく思っていたりしました。
そう思うと、昔の一世一代の奇策は、一応成功していたのかもしれないなと思います。

親友とは、その後も長い間、最初のきっかけから数えると10年間、つながっていました。
10年間は、1年365日のうち、350日くらいはチャットをしていたかと思います。
その間も、9mmへのライブ通いをしたり、あるいは9mmを通じて知った他のバンドだったり
昔よく観に行っていたお笑いのライブにも、わたしは通ったりしていました。
チャットのSNSには9mmを通じて知りあった先述の女の子もいましたので、親友とその子が
いてくれたおかげで、長い間、寂しい思いをすることは殆どありませんでした。
親友ほどの距離ではないですが、女の子もかなり遠い距離に住んでいましたので、やはり
SNSでの「距離感が皆無」という事象は、わたしにとってはありがたかったものでした。

そして、親友とのチャットは、今から3年前の丁度この時期に、やりとりが止まりました。
なぜなら、同じ家に住み始めたことで、チャットを通す必要がなくなったからです。
親友は、私の夫となりました。

 

結婚してからはよく「なんでここに生まれて、ここの人と結婚したの」と聞かれます。

きっかけ諸々何も話さないで結婚の事実だけ伝えると、まあ不思議なのだろうなあ、と

思ってしまうのですが、わたしにとっては、親友しか考えられなかった、というのが

正直な気持ちだったりします。一番つらい時に、一番深く理解してくれた、憧れの人で、

これの魅力は、他の何も代わりにならないと、そう思ったのが、結婚を決めた理由です。

ただ、何せ自己肯定感の低いわたしなので、生活環境や金銭の価値観などが違いそうな

わたしを娶って果たして親友は幸せになれるのだろうかと思ったりもしたんですけども、

決して短くはない時間の中で、ゆっくり親友も考えてくれたのだろう、と思うことにし、

「いやまあわたしで良ければ」「とっくに気持ちはあった」とお返事をしたものでした。

いま思うと、もうちょい可愛らしいプロポーズの返事は出来なかったのかとも思いますが

わたしにとってはこれが、なんにも飾っていない、等身大の返事でした。


そして、結婚式には、一番最初に夫を知るきっかけになった趣味の仲間と、女の子も、
本当に凄く遠い距離の中、来てくれました。全員が、初めての来訪となる、この場所に。
絶対に、夫となった親友に、みんなを逢わせたかったので、物凄く嬉しかったです。
危うい綱渡りをしながらも生き延びて引き合わせられたことを、心から嬉しく思いました。

今日は、2019年の12月15日。
日本列島の半分以上を隔てた距離同士で、誰よりも一番心の弱さを理解してくれていた、
昔は、ただただ憧れていただけの存在だった親友。
その命の恩人とも言うべき親友に永久の別れになるかもしれない告白をわたしがしてから、
丁度今日、12年の月日が経ちました。

12年経った今は、お互いに身体を少し悪くしながらも、ゆるく元気に過ごしています。
むかしお互いに苛まれていた悲しい気持ちは、少なくともわたしにはありませんでした。
親友もたぶんなかったことでしょう。1日を、大好きな競馬予想で過ごしていましたので。
仕事に出ながらわたしは、今はひとまずだいじょうぶよね、と親友のことを案じていました。

仕事の帰り道、親友が生まれ育ったこの街のとりわけ綺麗な繁華街を、写真に残しました。

親友と知り合ってから知った、ベンチに腰掛けてサックスを吹く紳士の像と、その足元から

静かにサックスの音に耳を傾けるようにちょこんと座って紳士を見上げる猫の像を入れて。

あまり彫刻に詳しくないわたしが、見つけるなり一発で惹かれた、お気に入りの像です。

まるで、この地元の高校生としてTVに出ていた、ひときわ華やかだったかつての親友を、

たまたまTVで見つけて惹かれていった、通りすがりのわたしとを描いているかのようで。

とりわけ、旅行客として一人で訪れていた頃は、ずっとその像のそばに居たものでした。

いつか、この距離が近くなって、紳士のそばに猫が近づくことがあるのだろうか、などと

勝手な想像なんかもしたものでした。わたしと、親友の距離のことを思いつつ。

 

わたしは、この街に、できるだけ長く穏やかに、親友と暮らしていきたいと願っています。
この街は、親友と、そしてわたしの命をつないでくれた、大切な街です。

命の火が、極力穏やかに消える日まで、ふたりで生きていけたらと、思っています。