外出自粛ではっきりわかったこと | 徒然むかしばなし

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蝦夷地のほぼど真ん中に棲むクイズとロックバンド好きの主婦による、昔の思い出話をまとめたブログ

先日書いていた、想い人への「訣別をするのは、むしろこちらの方」という事への答えというか

結論のようなものが、この2ヶ月くらいで、はっきりと出たような気がしている今日この頃です。

此度の疫病(というワードがすぐ浮かぶくらいには、最近は想い人の後輩さんの話し言葉の雰囲気が

かなりお気に入りだったりします)で予定していた観覧や接見への予定がなくなってしまい、

代わりにオンラインでの催しが方々で行われるようになって、精神的距離感が変わったことで、

「わたしは、差し金は出来ても、太客にはなれない」と思うようになっておりました。

 

ここでいう「差し金」は、文字通りお金を差し出す、という意味ではありません。

(意味がわからない方はググってください。ここでは、漢字ペディアの②の意味で書いています)

昔のことを思えば、差し金が出来うるオンラインツールが出来るようになった昨今は有難いですけども。

差し金が出来るツールの有難さについては、同時に、我儘な客からも同時に飛んでるのだろうな、と

昨今の配信方法のちょっとした変更に対して、正直なところ、憤りにも近い気持ちを思っておりました。

あんな事よう本人に飛ばすよなって。こんなん言い出したらきりがないだろうよ、と。

まあ、初回は、都合つけて欲しいと仰った方の時間を反映してない時間からで少し溜飲は下がりましたが。

ちょっとした変更は、「僕の都合を伝えますね」という意味であれば、なんも文句はないです。

それならばむしろ「教えてくれてありがとう、都合空いてたら行きます」くらいで、ありがたいので。

基本的に配信は、「空いてるタイミングでするもの、客は都合が空いてたら行くもの」だと思います。

「こっちに都合を合わせてよ」なんて、客から頼むものでは決してないです、ほんとに。

 

太客にはなれない理由は、主に「独身の時とは課金への事情が変わった」というのが大半なのですが、

それでも、課金へのボタンクリックを躊躇うようになってしまったというのは、そういう事なんです。

これ、もうちょっと方法なかったりしたのかな、それならもう少し直接届けられるのにということや、

色々複雑なことを思ってしまって。思わず「太客になるには歳と経験を重ね過ぎた」と感じました。

(というくらい、お知らせがあってすぐ見に行きました。購入ボタンも5つとも生きてたくらい即でした)

正直、5つ即完ってのを見て、「買えた人、自由というか、なんというか」と思ったりしたものな。

ちょっとそのくらい、うーんと思ったのは事実です。申し訳ないんだけど、これはしょうがない。

想い人の事後のつぶやきも正直「ドンペリ入りました」くらいの雰囲気に見えたりしたのですよ。

こういう大きな買い物は、「買った」って本人に飛ばすのも野暮だよねって思いましたし、

引用で取り上げることもないほうが雅やかだったんじゃないか、なんてことを思ったりしました。

品がある雰囲気の方だったんで、尚更「あれっ」と思ったのですよね。個リプでええのにね、って。

あと、創作する仕事の人として「えっ、それ手放しちゃうんだ」というのもちょっと思ったりもして。

もうあの原画でグッズは作らない、あるいはもうスキャン済みで賄える、ってことなんでしょうね。

他にも、額装済みで送るんだ、ということも。送料とか、ガラスの覆いは割れやすいとか、配送業者とか

色々なことを思うと、出来ればこれは送ってこられるよりも現場で持って帰りたい、と思ったのです。

今の事情では無理だろうけど、個展があってその場でご本人から受け取って持ち帰るのが理想だなと。

販売されていたもの、確か2月の展示では販売ではなく展示だったはずなので、今回出てるのを知って、

そして思った以上の値段(安いという意味です)で、色々と「うわあ、まじか」って思ったのですよね。

これ、手渡しなら倍の値段付けても買い手が居ただろうにな…ってのも思ったりしましたし。

追加販売もあるようなんですけど、出来れば推しの画は出ないで欲しいなあ。

洗濯機のが、Twitterでもやりとりした思い出の絵なんで、置いといていただきたいんですけどね。

まあでも、そんなのを言う方がよっぽど困った客ですね。悶々と過日を見ることになりそうです。

 

ということがあって、わたしはあまり客として落とせるものを落としてない、むしろ落としどころは

だいぶ実生活重視で選ばせてもらっているなあと、実感した次第でした。

これはでも、想い人に限らず、好きなバンドの物販のときもそうだったので、根本的なものと思います。

また、わたしはやはり、想い人には、物凄い出逢い方をした、素敵な方という気持ちが大きくあって、

そこには実際の職業は関係していなかったのかもしれないなと、この2ヶ月ほどで実感しました。

実際のお仕事も凄いお見事で何を見ても楽しいのだけど、同時にどこかで、偶然での想い人が蘇って

「いや普段ここまでぐいぐい行く人じゃないのよ」って考えたりすることも度々あったりもしてて。

これは今に始まったことではなく、昔に1年ちょい現場に通っていた時にも思っていたりしました。

なので私の中では、一人の人に対して二人の人の印象があるような、そんな感じなんです。

二つの印象があるということだけ、そういう意味では恵まれているのかもしれないのですが。

 

なのでわたしに出来るのは、表立って「お助け申した」と言うようなこともせず、あくまで密かに

「しかと拝見させて頂いた、此の様に感じ申した」という感想を送り続けることかなと思っています。

(書いてて思ったけど、後輩さんのこの口調、なんらか表現をぼやかすのにめちゃめちゃ便利ですね)

もう亡くなられた、優しいご婦人なら、どう思われるんだろうな、とちょっと思った次第でした。
ここまでめんどい想い方の客は、かえってご迷惑になりますか、って昔みたくお話出来たらなって、

どうやっても叶いもしないことをちょっと思ったりしました。

今のところ可能性はほぼほぼないけど、もし此度の疫病でわたしが居なくなるようなことがあったら、

去年旅立ってしまった両親の祖母と、優しいご婦人に会いたいかもしれない。

忘れてはいけないけど表立って書けないような思い出、めちゃめちゃあるし、報告したいです。

そのくらい、私の想いは秘めてのものでないといけないなと思った、流行り病の昨今の午後でした。