佐渡國法華講衆
この記事を書いていたら「佐渡島世界文化遺産登録決定!」のニュースが飛び込んで来ました(2024年 7月27日)何という奇遇!では、大聖人様佐渡御在世当時、同じく佐渡に流された人々はどのような人達だったのでしょうか主だった人達を挙げてみますと①建久九年(一一九八年)興福寺の僧・玄俊(げんしゅん)僧兵と徒党を組んで衆徒を先導し騒乱を起こしたとし後鳥羽上皇の命により流される②正治元年(一一九九年)僧・文覚(もんかく)文覚上人とも、源頼朝の家来。頼朝死後、天皇家や将軍家の勢力争いに巻き込まれ連座制にて流される③建永元年(一二〇六年)藤原公定 平安時代後期の公家罪状不明④承元二年(一二〇八年)僧・行空(ぎょうくう)法然の弟子念仏を広め諸仏を謗ったとして南都諸宗に訴えられ流される⑤建歴二年(一二一二年)伊達為家 萩生右馬允と争闘し流される⑥建保四年(一二一六年)仙秀 安楽寺の盗賊十七人のうちの一人⑦承久三年(一二二一年)順徳上皇 承久の変により流される⑧弘安七年(一二八四年)北条時光 謀叛・陰謀が発覚したために流される⑨永仁元年(一二九三年)平宗綱 ご存知平左衛門の長男父に連座したとして流される⑩永仁六年(一二九八年)京極為兼 陰謀を企だてとして流される⑪正中二年(一三二五年)日野資朝 正中の変の首謀者として流される後、佐渡にて斬首されるこれらのうち、約半数は政権転覆等にかかわるもで、特に⑨平左衛門が処罰された後、長男が流されていたことは注目に値しますまだこの長男は一旦は赦免されるも、またまた罷免され他所に流されて哀れな一生を終え、完全に一門の血筋は途絶えましたまた僧侶が多いのも特徴的です④法然の弟子、行空も念仏布教で流されています同じく法然の弟子、親鸞などは佐渡の手前、越後(新潟)に流されましたが、草庵を建て地元の娘と結婚し七人もの子をもうけていますしかも再婚で・・・愚禿親鸞同じ流人でも親鸞は呑気なもんですね〜(笑)布教もせず毎夜せっせと子作りに励んでいたのでしょうか?命懸けで布教する覚悟があったのでしょうか?緊張感が伝わってきません(爆笑)参考までに我が妙光寺の先々代住職・尾林高徳師のご説法を参考までに掲載しておきます◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇親鸞の「教行信証」によりますと「しかればすでに僧にもあらず、俗にもあらずゆえに禿(とく)の字をもって姓とする」と言い、これをもって「愚禿親鸞」とでも申すのでしょうが、愚かな僧という意味の「愚禿」と霊鳥、すぐれた者という意味の「親鸞」では一致しないではありませんかこれでは名は体を表していないことになります「これによりて真宗の栓を証し、浄土の要を拾う。ただ仏恩のふかきことをおもうて、人倫のあざけりをはじず」(国訳諸宗部22-P347)と言って決して浄土の要を悟ったとは言っていない、あくなで浄土の要を拾ったのだと書いております京都・東京にそして安芸・加賀に強大な門徒集団を誇ろうとも、これが真宗開祖の言葉であります◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇僧の「食肉妻帯」は御法度!と思われるでしょうが、このように妻帯する僧は鎌倉時代にもにいたようです御書にも最蓮坊さんのことを「十七出家、妻もめとらず、肉も食せず」と書いておられますので比叡山でも「妻帯者」がいたのでしょう同じように愚禿親鸞もまさに越後にて愚禿を地で生きていた僧だったのです(爆笑)次に⑦の順徳上皇ですが佐渡に流された時に上皇にお供して一緒に流されて来た武士が阿仏房さんと言われております(近年の研究では土着の武士であったという説もあります)いずれにせよ武士の身分には変わりはありませんこの阿仏房さんは三味堂におられる大聖人様を論詰しようと押しかけ、逆に破折され念仏を捨てて妻・千日尼と一緒に入信します。まずはこの阿仏房夫妻が佐渡にて入信第1号となりますその後続々と入信者が増えていくのは前回ご紹介した通りです阿仏房さんだけでも豊後房、覚静房、山伏房などを育成し、子息もそのあとを継ぎ、ひ孫などは幼少より富士に上り出家し日興上人に仕え、日満と名をいただき北陸方面の中心者になりました。おそらく同じように本間重連や中興入道、国府入道夫妻の眷属も続々と入信したことでしょう。陸続と増える日蓮門下に危機感をいだいた念仏者の道観と生喩坊は鎌倉に上り武蔵守殿に「日蓮は阿弥陀仏を焼き、川に流している。また朝夕山に登り大音声で鎌倉殿を呪詛している」と訴え出て、偽の御教書(幕府の通達書)まで偽造して接見禁止処置にまで及んでいますですが大聖人様、日興上人様が布教されている佐渡ではその勢いが止まる事は無かったようで、遠藤四郎盛國さんなどは出家し下江坊と称しています道観や生喩坊の画策もむなしく、3カ月後には幕府から赦免状が届き、約2年半に及んだ佐渡流罪生活も終焉を迎えましたさて驚いたのは佐渡の法華講衆です今まさに法華経が島中に流布されている最中、まさか大聖人様、日興上人様が佐渡島を離れられるとは考えておられなかったようで、特に阿仏坊夫妻、国府入道夫妻の嘆きは大きかったようです鎌倉に戻られた大聖人様が最後の国家諫暁をなされたあと身延の沢に隠棲されますが、草庵が建つか建たないかうちに国府尼と阿仏坊尼の御供養の品々を携えて国府入道が佐渡から登山して参りましたおそらく登山第一号でしょうその後も91才で亡くなるまで超高齢者にもかかわらず阿仏坊さんは計3回も登山されていますまた阿仏坊さんが亡くなられたあとも、息子さんが遺骨を抱いて登山されています国府尼さんや阿仏坊尼さんたちはさぞや大聖人を慕っていたのでしょう大聖人様は阿仏坊尼や国府尼さんの御供養の品々を前に「後ろ髪を引かれるような想いです。夢か幻か貴女の姿は見えないけれど貴女の真心をここに確かに感じます」「私を恋しく思うのであれば昼に出ている太陽、夕方に出る月を拝んでください。そこに私は必ず姿を浮かべるでしょう」(国府尼御前御書)と慈悲深いお言葉で励まされておりますこの一文を見てもいかに佐渡の法華講衆の求道心が深かったことが分かります(特に超高齢者・阿仏坊さんの徒歩での登山、こちらはギネスブックに登録してもらいましょう)今回は佐渡島で入信した謎の僧侶・最蓮房さんのことも含め計3回、御在世当時の佐渡島を考証してみましたその佐渡島が世界文化遺産に登録されたことを機に「佐渡國法華講衆」の精神を忘れずに今後の私たちもしっかりと信心に励んで参りましょう◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇あとがき僧侶の食肉妻帯の問題があります親鸞はすでに鎌倉時代に犯していました鎌倉時代は僧侶が尼さんを犯すと流罪に処されました先日も天台宗の寺院で住職が尼さんに対し14年間にも及び性的暴力を振るっていたことが発覚しました天台宗での性暴力について訴えた尼僧の叡敦(えいちょう)さん「天台宗の寺で性暴力被害」 尼僧が僧侶と大阿闍梨の懲戒申し立て:朝日新聞デジタル (asahi.com)(淫乱坊主の肉声あり)この尼さんは洗脳され虐待され続けました現在も係争中でこの淫乱坊主の僧籍剥奪の訴えを比叡山の宗務院に対し起こしているそうですこれが現在の天台宗の現状です今も昔も懲りない坊主がいるんですね〜日興上人云く「先師の如く予が化儀も聖僧たるべし」◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇妙光寺支部/城内啓一郎御意見・イチャモンはこちらまで09032123588