創価学会と顕正会
8月はお休みを頂いておりましたお盆の時期に日本列島を縦断して甚大な被害をもたらした台風10号みなさまの地域は大丈夫だったでしょうか?如説修行抄にいわく「万民一同に南無妙法蓮華経と唱えるならば、吹く風枝を鳴らさず、雨土塊を砕かず、世は犠農の世となりて」とありますがとんでもありません吹く風大木を倒し、雨家屋を押し流し、世は凶作となりて(汗)まだまだ折伏弘教に邁進さなければなりませんみなさま頑張ってまいりましょうさて今回は一気に飛んで昭和のお話を、、日蓮正宗で昭和と言えば「創価学会」は切っても切り離せないでしょうそういう私も本家は西山本門寺の檀家一族ですが、母親が学会員の従姉妹から折伏を受けて正宗に巡り逢えたのも学会の折伏闘争の一環からでした現在の法華講員でも元創価学会員はかなりいるのではないでしょうかその創価学会創立当時の名称は創価教育学会といいますこれは創設者の牧口常三郎氏が教育者だったらと言われていますなので当時の会員は学校の先生が数多くいました(入信当時の牧口氏と戸田城外)写真を見ても分かるように口をへの字に結び、いかにも教育者然としておりますさてではこの牧口氏を折伏したのは誰でしょうか?意外にもこのことは学会員には知らされておりません時は昭和4年、牧口氏を折伏したのは同じ教員仲間の三谷素啓氏であります三谷氏は常在寺に属する「大石講」の幹部でしたそれまでの牧口氏は田中智学(元日蓮宗の僧)が起こした「国柱会」に入っておりました(この事実も学会員は知らされておりませんし、その後、創価学会を率いる戸田城聖氏に国柱会はコテンパンにやられます)ちょうど折伏される前の昭和2年牧口氏は北山本門寺を訪れ、故早川逹道師と面会し、創価教育と日蓮について自説を色々と話し「北山本門寺の信徒になりたい」と申し出たが、早川師は「貴方の考え方は日蓮聖人の教えとは違う」と言って信徒は許されませんでした(この事実も知らされておりません)なぜ牧口氏が北山本門寺の信徒になろうとしていたかは興味深いところですまたその頃の戸田氏はキリスト教徒で、戸田氏にキリスト教を勧めたのは内村鑑三の弟子で田中達夫という工学博士でしたきっかけは自身が経営していた「自習学館」の生徒の親が田中氏だったからであります(この事実も知らされておりません)日蓮正宗に入信した牧口氏は早くも教化親の三谷氏とぶつかり合いました国柱会で田中智学の教えを受け自ら「創価教育学体系」なる自説を振り回す牧口氏と「立正安国論精釈」などを著した三谷氏とは水と油のような関係だったのでしょうその後三谷氏は大石講から独立して直達講を起こし講頭になります大石講の幹部から新たな講を起こして講頭になった経緯は分かりませんが、我が妙光寺も戦前は講が七つも八つもあり、それもかなり個性的だったといいますから今より自由に構成ができたのかも知れませんその後三谷氏は尿毒症であっけなく他界してしまいますその三谷氏がいなくなった直達講を牧口・戸田両氏は乗っ取りを画策しましたそれに危機感を抱いた直達講の幹部達は講を解散しました直達講の乗っ取りに失敗した牧口氏は創価教育学会は本格的に講活動を開始いたしましたこの一連の行動を見ても牧口氏はどこか「お山の大将」でいたかっのではないか、と思われても仕方ありませんその後の牧口・戸田両氏の創価教育学会としての活動はみなさんご存知の通りですそれでは顕正会(旧妙信講)を設立した浅井甚兵衛はどんな人物だったのでしょう◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇以外、次号に続く