今回も引き続き日亨上人のインタビュー記事を掲載いたします。

今回は御影堂を御寄進なさった江戸時代の大スポンサーである敬台院殿のお話になります。

 



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それはですな、勢力というとですね、(徳川)幕府になってそうですね、三代将軍から五代将軍あたりまでは、やはりこの、重須(北山本門寺)が一等有力だった。

そしてこの、どちらかというとですね、大石寺が少し頭を持ち上げた。

伽藍もですね、今の本堂が敬台院
(きょうだいいん)によってげきたのですから。

 

 


(御影堂の前での筆者wお山で見かけたらお気軽に声を掛けてください)


あの時分はもうですね、普通の庶民で作る寺というのはとっても、金力も無いしね、それからこの、権力を持たないですからいい物ができなかった。

始めて大石寺がそういうもの
(権力)に結びついたのは敬台院のためです。

敬台院は、要法寺にいわせるというとね、あの人は蜂須賀の先祖ですね。

蜂須賀小六とよくいいますね、あの人ですね。
秀吉公との例の関係からね、幼年時代の関係からとても有力であった。

それがですね、蜂須賀公の倅の至鎮
(よししげ)という人が徳島に(徳川家から)知行(領地)を与えられて大名として特待を受けていた。

そのおっかさんの、至鎮公の奥さんですね、それが例の神君のね、家康公の養女として、その蜂須賀公に縁付いたのです。

例のその、家康公の政略上としてね、あちこちの大名の娘を自分の娘にして、偉い大名に縁付かせた。

自分の味方を作るために、その一人ですから。
それですから幕府の御養女の奥様の方が勢力があったです。

逢庵公
(至鎮公の父)がいくらか要法寺との関係があった。

それで、その敬台院殿がその縁故で要法寺に多少の関係はあったらしいです。

それはそれとして、今度はなんですね大石寺と縁が深くなった。

そして、この鳥越
(東京都・台東区)の池田候の屋敷にですね、法詔寺というのができた。

その鳥越の法詔寺がですね、今度は屋敷内に置くというと、あんまり寺が粗末になるというので、安房の徳島に知行が決まったから、この法詔寺が徳島に移ったんですね。

それが今の敬台寺の元ですけれども、昔の図など見ると今のは1/10も無いですね。
とってもデカいものを拵えたらしいです。

その余波としてですね、お山にやはり本堂が小さかったですから、今の大きな本堂ができたのですね。
敬台院の全ての計らいです。


それですから大石寺住職なるものが、今度は他の諸本山と同じようにですね、独礼席となった。

普通の小大名は総礼席と言ってずっと並んだところに将軍が出てくるという事になる。

独礼というと一対一で待遇ができた。
大勢並んだところに上段に将軍家が来て頭をこちらから下げるのではなくてですね、もう将軍家一人、上人一人でもって、その待遇ができる事になった。

それは必ずしも寺が大きいというわけではない。
特別の待遇でもってそうなった。

その独礼席になったのが寛師の前の日宥上人時代ですからその辺からですね、大石寺が少し認められてきたですね。


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(あとがき)

敬台院は古河藩・小笠原秀政の娘として1592年誕生しました。

この1952年は豊臣秀吉が朝鮮出兵した年に当たります。

その後、家康の養女となり蜂須賀家へ嫁ぎ大石寺の一大スポンサーとなります。

また、将軍謁見の独礼席を獲得したのも敬台院殿のお力ということです。

日亨上人のお話にあるように「徳川家の奥方」というのはこのように相当な力があったことが分かります。

その後、六代将軍・家宣と御台所(正妻)の天英院殿の寄進により三門が完成し大石寺の伽藍が荘厳されました。

この蜂須賀家、実は豊臣家恩顧の家臣だったため取り潰しの危機に会います。

福島正則や加藤清正などはすでに取り潰されていました。

正法護持の功徳だったのでしょう。

この蜂須賀家は徳川幕府終焉まで栄え、明治に入り18代当主蜂須賀正氏はイギリスにまで留学いたします。

その後、鳥類研究者となり日本人初の自家用飛行機まで所有するという華々しい活躍をいたしました。

まだ自家用車も普及していない時代にです。

 



このように「御法の功徳力」というのは孫子の代まで続くんだなぁ〜と改めて考えさせられました。

「特別御供養」などという綺語・造語に振り回されることなく、真心からの御供養を心がけてまいりましょう。



※文中分かりやすいよう(註釈)を付けました

妙光寺支部・城内啓一郎 拝