今回も引き続き日亨上人のインタビュー記事を掲載いたします。

 



表題の檀林とは檀所、あるいは学林ともいわれ僧侶が学問をするいわば僧侶の学校のことです。


日蓮正宗では日興上人か重須の檀所(現北山本門寺)を建てたのがその始まりです。


細草檀林は江戸時代初めに千葉県東金市の南東に建てられました。

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問 細草檀林はいつ頃できたんでしょうか?

あれは大網(千葉県)ですね。

東金の檀林から分離して、ちょつと東金の離れた処にできて、そこからまた分離して細草にできたんです。


そしてその時の講師が八品(派)の妙蓮寺の学僧だったのです。


その頃細草に地所をあげる(提供する)人がいたのです。


というのはあの時分、村のいくらか経済上の関係もあったんでしょう。


そういう僧侶の大勢集まるところができれば何とか村の調子(経済)がいいですから。
それでまぁ地所をあげる人があった。
土地はあったんですけれども建物を建てる人がいなかった。

 



問 細草檀林というのは正宗の人ばかりではない?

ええ、細草檀林は富士諸派と富士派とね八品だ。
顕本
(法華宗)は来なかったです。


八品の一部と富士ですが要法寺はあまり来ないです。


要法寺は小栗栖
(おぐりす)檀林(京都・伏見区)を持っておりますから・・・ 全部来ない訳じゃない。


地方の関係から細草に通うのが便利な人は細草に通ったけれども、わざわざ京都から細草に通った人は無かったららしいです。


ですからまぁ、細草檀林の初めはどっちかというと大石寺が金主(スポンサー)で、妙蓮寺の貫主が学頭で能化であってやってきたのですね。

問 檀林では仏教だけ教えたんですか?

ええ仏教だけ。
というのはあの時代は学林の親玉である比叡山の檀林が衰えてね。
そして関東に檀林ができたのです。


関東にできた中では一番大きいのが川越の近くの仙波檀林です。
それから相模にも美濃
(柏原)にも檀林があった。


まぁ檀林がいくつにも分離してしまった訳です。

問 大石寺の猊下なんかはみんな細草檀林に通っていたようですね。

ええ、その以前はですね、大網の檀林出身もあれば沼田(千葉県東金市)あたりの出身もあるんですよ。


そして細草ができてから皆細草に行ってしまって、他の檀林には行かなくなったです。


初めはお山の貫主さんも檀林出身でない人が多かったですね。


それで日精上人が檀林出で本山の貫主になった初めです。


要法寺から来た人には、細草に縁のある人が少ないです。


というのは日精上人あたりは細草檀林のできない前の人ですからね。

(中略)
はじめは妙蓮寺と兼帯の檀林であったのですけれども、やっぱり八品の中でもですね、鷲巣(茂原市・鷲山寺)や岡宮(沼津市・光長寺)あたりは細草に行ったらしいですけれども、どうも歴代表を見るというと妙蓮寺出身が多いようです。


八品の方は尼ヶ崎の檀林が大きいですからね、ですから八品の全体は来なかったですね。


それからだんだん後になって百年、百五十年となってくるとね、ほとんど大石寺檀林になってしまったですね。


というのは要法寺は別ですが、富士六山が大石寺ほど盛んにならないでね、だんだん衰微していた。


北山は徳川初期は盛んでしたがね、色んな悪いことがあって、そうですね、三、四十年の間に相当な火事が十ぺんもあったという。


それですからすっかり寺の形を復興するのに困っちゃって、ですから檀林どころじゃないです。
食うに困っていたです。


それで北山では自分の寺では維持できないからいろんな方面の寺からですね、貫主をもってきてその力でもって回復しようとした。
明治になってからもそれをやりましたね。


問 日志なんかそうですね

ええ、日志もそうです。
今度の片山なんかもその流儀ですよ。
身延からもってくるなんてけしからですね。


ほとんど百年、二百年の前からそういう習慣があるんです。


問 檀林では主に台学をやったんですか?

ええ、檀林は主に御書法度でね、表向きに研鑽はできない。
内緒ではかまわん。
御書を表向きにやるというとね、争論が起こるからできなかった。


大網から沼田に来て、沼田から細草に来たのです。


大網は顕本ですがね、顕本と衝突してそこで沼田ができて、沼田がまた富士門下の人と八品の一部が衝突して、そして細草に移ったんです。


そういう争いが何から起こるというと宗学から起きる、信仰から起こってくる。


ですから昔の人が言っておりますけれども、細草でさえですね、宗祖の御影の衣がしょっちゅう変わっちゃうんだ。

能化が変わるというとね。


富士門の能化が出るというと薄墨の衣を着せる。
八品の能化が出るというと緋の衣を着せるという。
そんな関係があった。


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(あとがき)


このように細草檀林は江戸時代に入ってから大石寺が建物を建て(施主は境台院殿)校長・教頭は八品派の僧侶が務めたようです。


大石寺の法主で最初に檀林をお出になったのは日精上人で最後は明治に入り日応上人がお出になりました。


その後檀林は廃壇になりました。


その理由はここでは述べられておりませんがやはり距離的な問題が大きかったのではないかと考えられます。


また時代も江戸から明治の文明開花と進み名前も東京となり都市化が加速度的に進みます。


都内には立正大学や東洋大学という仏教大学また早稲田大学(東洋哲学科)などが設立され檀林が次々と廃壇になったようです。


日淳上人などは早稲田大学・東洋哲学科をご卒業なされておりますし、日顕上人は立正大学をご卒業されております。


また日亨上人のお話によると当時の檀林は春と秋2回に分け3ヶ月間続けて通ったようです。


そして檀林の学僧は所化よりも住職格の人が多かったそうです。


正宗の若い竜象諸兄には日淳上人のように早稲田の東洋哲学科、はたまた東京大学の法華経研究会などを目指して勉学に励んでいただき、その後に宗学や台学をみっちりやってもまだ余りあるのではないかなぁ~などと考えておます。

妙光寺支部
城内啓一郎 拝