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その後、西山の日順上人の布教により常子内親王(つねこないしんのう)の帰依を受けました。

常子内親王は御水尾天皇の皇女であり、また、関白・近衛基煕公の御正室でもありました。(天英院殿の御母堂)

(今でいえば愛子さまや紀宮を説法教化するようなものです)

西山本門寺に帰依した常子内親王は当然、御両親の御位牌を西山本門寺に納め、位牌処としました。

御水尾天皇の位牌となった西山本門寺へは、朝廷から「下馬の制札」が下附されました。

当時この「下馬札」は絶対的なもので、これを下附されたのは、伊勢神宮と西山本門寺の2ヶ所にすぎなかったのであります。

次は寺格の回復であります。


寺格の回復とは将軍年賀の挨拶の時の「独礼席」の獲得です。

「独礼席」とは将軍と単独で披見される席であります。

日順上人は幕府寺社奉行に独礼席獲得の訴訟を起こしたのであります。

これには幕府も困りました。

家康が一度闕所
(没収)にした寺を認めれば幕府の権威は失墜することになり、かと言って朝廷の位牌処の西山本門寺を放置して置くわけにもいかなかったのであります。

江戸幕府を向こうに廻して、王手飛車取りと出た日順上人は、余程の傑僧だったに相違ありません。

ここで「天下の副将軍」と云われた水戸黄門が出馬して来ました。

 


(水戸黄門像)


まず、近衛基煕公と常子内親王との間に儲けられた姫君(天英院)を六代将軍家宣公の御台所とし、次いで黄門の猶子(養子)を西山本門寺の貫首にする事でこの件は納められたのであります。

また、西山本門寺にはテレビで活躍した助さんこと佐々介三郎の書状も所蔵されております。

元来、助さんは学者で、黄門の「大日本史」編纂のため諸国を歴訪した時、西山本門寺の由緒書きも蒐集したのであります。

 



水戸黄門も披見した西山本門寺由緒書は静岡県資料第二揖に掲載されております。

これをお読みになれば、身延山久遠寺と富士門流の相違点がはっきりいたします。


水戸黄門もこの由緒書きを読んだあと、その正義を心に刻み込む「西山隠士」(せいざんいんし)と号したのであります。

もちろん西山本門寺には独礼席が許され、寺格回復も成功したわけであります。

常子内親王の姫君で家宣の御台所となった天英院はのちに大石寺の三門造営施主となります。

もとは江戸、芝の上行寺が菩提寺
(西山本門寺末)でしたが、あることから西山本門寺は大石寺と相談して菩提寺を向島・常泉寺に移したのであります。
(常泉寺には天英院の第一子の姫君の墓所もあります)

以上で私の講演を終わりにしますが、富士郡北部の富士南麓は、宗開両祖が目指した本門戒壇の建立地であります。

現代流に云えば宗教都市で国内はもとより海外からも参詣に来ることは宗旨がそうなっているからであります。

富士五山が互いに離反し、確執にとらわれていてはその実現はむずかしい。


心して進まなければならないと思います。

 



〜終わり〜

※講演会のリライトが長文のため、読みやすいように加筆・訂正いたしました。

また大石寺と直接関係ない部分は割愛いたしました。

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《あとがき》


私は三門をくぐるたびに「こんな大きな三門を寄進した天英院殿を折伏教化したのはいったい誰だろう?」と思案していましたが、この研究書を読んで初めてその経緯が分かりました。

当時はテレビもラジオ、ましてやネットも無い時代、日亨上人のお話しにもあったように説法・法話が上手い僧侶、つまり話が面白いお坊さんが宮中や公家方に呼ばれて講義をしたようです。

今のようにICレコーダーやビデオがありませんのでどのような講義をしたか分かりませんが、この日順上人はさぞや皇族や公家衆を魅了する講義をしたのでしょう。

今でいう林修さんや池上彰さんのような人気講師だったのではないでしょうか。

原稿棒読みやテキスト読むだけの講義では人を感動させ、ましてや入信に至らしめるなど夢のまた夢、のお話です。

大聖人様は「人を見て法を説け」と御教示です。

大聖人様御在世当時の鎌倉市中は念仏一色でした。


その世情を見た大聖人様は「十王讃歎抄」を説いて人々を法華経に導きました。
(なぜか御書未収録)


「十王讃歎抄」は稲川淳二の怪談話(笑)など問題にならないほど怖く「法華経で追善供養しよう!」という氣になります。

大聖人様の御説法は原稿など絶対に無かったはずです。


聞く人々を心をつかんで離さない御説法だったのです。


また日本史三大ミステリーの一つ、

「信長はなぜ本能寺で討たれたか」の信長の首が西山本門寺に葬られた経緯も分かりました。

私の先祖は西山本門寺が菩提寺で墓所もあります。

今回の(1)号に出てくる「城内家文書」はまさに私の先祖が書き残した日記です。

昔、叔母から「西山本門寺には信長の首塚と下馬札がある」などと聞かされた時は、
「ンな、バカな〜」と半信半疑でしたが、これを読んで思わず「ガッテン」しました(古っw)

昭和に入り、西山本門寺貫主、由井日光上人の代になると、大石寺に一時帰伏していた時代もありましたが、残念ながら現在はどこにも属さない単独寺院です。

 

(左端・故由比日光上人)

北山本門寺は日興上人が次世代の竜象を育成することを目的に建てられた談所(学校)です。


日興上人は大石寺を日目上人に付属したあと、ご自身は談所で次期教団を担う人材育成に心血を注いでおりました。

しかし日興・日目両上人が御遷化された翌年には早くも「仙代問答」が勃発し、大石寺-北山本門寺の結束力が衰退していきます。

日仙は大聖人様が定めた本六僧の一人、日代は日興上人の甥であり新六僧の一人でありました。


日仙は師匠の大聖人様の教えを無視する方便品不読の大僻見論者であり、日代は一見するとまことしやかな事を言ってますが、本迹一致の大謗法論者です。

この者どもの痴話喧嘩が元で北山との通用が徐々に薄れていき、現在では全くの関係の無い邪宗寺院になってしまいました。

西山本門寺はこの日代が開基のお寺ですので、大石寺とは直接の関係はありません。

小泉久遠寺は日郷が開基で、この研究書を読みますと大石寺と早くから確執があったようです。

現在大石寺と本末の関係を結んでいるのは妙蓮寺のみです。

しかもその関係は昭和に入ってからです。

明治期、大石寺日霑上人と北山の日志との間に起きた「霑志問答」は、北山を帰伏させるBIGチャンスだったのではないか、と考えています。

それから百年以上も経ちましたが、両寺の間になんの進展もありません。

また、問答をする気配すらありません。

本門戒壇の大御本尊を擁する大石寺としては富士五山中心の根本道場たることを自覚し、まずは北山、西山本門寺共に帰伏させ、両寺は大石寺とスクラムを組んで将来に建立されるべく大本門寺の戒壇堂建立に向けて不惜身命の広宣流布に邁進するべきではないかと考えております。


大石寺は昭和に入り、戸田城聖ー池田大作へと広布のバトンを託しましたが結局は破門・離脱に終わりました。


故日顕上人は

『僧侶主導の広宣流布』と一大請願を掲げられました。

このブログで紹介した歴代法主上人や各御尊師方の獅子奮迅の法戦を忘れる事なく、また皇族を教化した西山本門寺18代・日順上人に負ける事なく、若い日蓮正宗の竜象諸兄には、これからの歴史に名が残る大活躍を期待しております。


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《あとがきプラス》

先日、東京の色街・吉原に遊びに行って来ました。

と言っても中で遊んだわけではありません(笑)

吉原の商店会長が経営するホテル(ここもラブホではなくビジネスホテルw)で行われた落語会に行って来ました。
(なぜ吉原のど真ん中にビジネスホテル??)

落語会が終わったあと、会長の案内で落語家の林家たけ平さんと吉原の周辺を散策してきました。
(決して中ではありませんww)

 

(現在の吉原)

昔の吉原は江戸幕府が造った一種の城郭なのでその石垣の残がいや大門(おおもん)があった場所、お歯黒ドブの跡、一文字樓の跡地(現吉原公園)そして極めつけは死んだ女郎を投げ込んだお寺(浄閑寺)などを見学してまいりました。

そしたらなんとその投げ込み寺の中にあった女郎の供養塔で見つけました!


あの波木井さん施主の卒塔婆!

 



会長さんが言うには前回の落語会に来ていたのでこの近くに住んでいるのではないか、と申しておりました。

あの波木井さんの子孫に会える日も近いかも知れません。

運良くインタビューできた時にはまたこのブログでお知らせします。

今回の講演会のリライトもそうですが、生きた面白い情報は足で稼がないとなかなか手に入らないですね〜(笑)

妙光寺支部の城内でした
ご意見・イチャモンは
09032123588まで

ではまたしーゆー
てかしばらくお休みしまーす