作家・湊邦三


昭和31年の春、日亨上人は宗学要集十巻の著述のために本山から畑毛(静岡県函南町)へお帰りになると、昔から懇意の高橋旅館の別館をお借りになった。

 


(牛車が行きかう当時の畑毛温泉) 


猊下は日ごろ健康には細心の注意を払っておられていて、朝に夕に時計を見ながら御入浴をされ、夏の暑い日も一日も休みなく原稿を整えられ、加筆され、校正にも目を通しておいでになった。

私は時々お伺いしては、これが90才をお迎えになった方の日々であろうかと目をみはったものである。

その別館で夜半、お手洗いにおいでになり、押せば開く扉と横に引かなければ開かない戸とをお間違えになったために転倒されて左の腰を強く打たれた。


秋になって、別館をお出になり、大工を入れて改造された書斎にお帰りになったが、引越しに書籍類の荷作りなど椅子に座りながら指示されるお姿は御不自由そうであった。

 


(日亨上人の書斎)

猊下のお顔がひどく腫れており著述に御不自由らしいのを見て、私が東京から蓮見喜一郎博士に来診していただいたのは今年の1月(昭和32年)蓮見博士は右の腎臓の故障からくる「ネフローゼ」と診断され、お手当をされた上で漢方薬の接骨木(せっこつぼく・ニワトコ)を煎じて飲まれるように言って帰られた。

それから2月3日にも来診され、函南の医師・山口東吾先生に日々の処置を依頼された。

その時、腎臓の疾患からくる浮腫は眼底出血の心配があるから、当分著述を休んでほしいとのことであった。


しかし、猊下は宗学要集十巻を購読している者に対しても、出版社に対しても、この企画を全面支持している創価学会に対しても強烈な責任を感じておいでになり、ホウ酸を溶いたぬるま湯で眼を洗いながら校正に目を通され、決して休まれなかった。

春・夏と小康を保たれ、著述に専念されておいでになった猊下でしたが、次第に元気を失っておいでになったのは8月の末ころである。

10月13日、御隠尊水谷上人の御見舞いに行かれ畑毛にお帰りになった時、私はこれはちょっとおかしいなっと感じた。
浮腫もできていたがお顔の色が今まで以上に悪い。

私は蓮見博士の診察をお勧めすると「まだ1、2年は生きて仕事をしたいので診察をお願いしたい」と仰言るので私は蓮見博士の再診を依頼した。


蓮見博士と山口医師が対診され、お手当の上、猊下の血液を採られ今後の処置を山口医師に相談されて帰京されたが肝硬変が起きているとのことであった。

数日後、血液を研究所で検査したところ油断ならない重態で、私は心を暗くながら山口医師に血液検査の結果をお渡しして、今後の処置をお願いした。

10月の末頃、山口医師が猊下の御容態があまり良くないと首をかしげておられるので、11月1日に上京して蓮見博士にお目にかかり尿毒素を取るドイツ・バイエル社の注射薬ペリストンと強心剤をいただいて帰り、山口医師にお渡しし蓮見先生の御意見もお伝えした。


私は11月19日に亡き兄の長男が大阪で結婚式を挙げるので父親代わりに出席することになっており、そのことを猊下にお伝えるとお元気な声で「それはご苦労様、道中が長いから氣をつけて行きなさい」と優しいお言葉であった。

また「畑毛の温泉は高血圧にも良いが、脚気にも良く効く。若い頃から自分は脚気が持病で、随分、悩んできたがここの温泉に入っていたら大変具合が良くなって寝起きが楽になった。蓮見博士にお願いして折紙を書いて頂いて宣伝すれば、脚気の人も助かるし畑毛温泉も繁盛すると思う」などと猊下とお話し申し上げたのが最後になってしまった。

結婚式の前日の夜半、猊下御容態急の電報を宿泊先の京都ホテルで受け取った。

 

翌朝急ぎ帰途につき畑毛に着くと猊下は御存命ではありましたが、今夜がいけないと言うことで各方面に知らせたという。

翌20日の朝、山口医師が来診されると、意外にも病状が好転していて、ここで水も飲んでいただければ持ち直すかもしれないので湊先生からもお勧め申し上げられないか、とのことでしたが長年猊下のお世話をして見えた円谷さんが、それは駄目でしょうといわれる。


猊下はどのように苦しくとも自分でベッドを降りてお手洗いに行かれ、視力が衰えられたのかある時は手探りでも行かれたが、昨晩は途中で歩くことができなくなってしまった。

その時に解けていた帯を結び直させて、御本尊様に向かって御祈念があり、それから一滴の水も口になさらなくなった。

それから23日朝まで昏睡を続けられ、今日か明日かと危ぶまれる御容態なのに、日頃、お身体を大切にされていただけあって、普通の人には見られない強靭さをお持ちであった。

たとえ叱られようとも御病状が好転するならお水を飲んでいただきたいと申し上げようと思ったが、猊下は一端決意されると、山が崩れようとも微動だにされない。


我が生命が尽きるのを御自覚されて御本尊様に御祈念されて水を絶たれたのであったら安祥たる御臨終の妨げになってしまう。

23日の正午近く、一年前から猊下の御給仕に見えていた妙光寺柿沼広澄尊師のお弟子の渡辺慈済さんがおいでになり「明日24日は猊下のお師匠様、日霑上人の御命日ゆえ御臨終は明日かと思う。それで丑寅勤行をするので先生もいらしてください」といわれるので、勤行の声がしたらお伺いしますとお約束した。

するとまもなく慈済師の題目の声が猊下の寝室から聞こえ、走り込んで行くと御臨終の間際で床の上に猊下は生けるがごとく身体を横たえておられた。

慈済師にいわれ私がお題目を唱えながら末期の水で猊下の唇を湿すと、そこへ、山口医師が脈を取られ「ご臨終です」と言われた。


もうあの清々しい猊下の白衣姿を見ることもできず、91才の御高齢とも思えない、底力があって、太い、あの響きの強いお声も、もう、いくら耳を澄ませても聞こえてはこない。
  


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このように御臨終間際まで筆を取られていた日亨上人。

碩学の上人のご出現により昭和27年に御書全集が他宗より先に刊行されました。

そのためにご出現なされた猊下といっても過言ではありません。

当時はどこの宗派が先に御書全編を完成させるか、が一大名目となっており、一進一退の編纂作業が繰り広げられておりました。

下馬評では身延が先ではないかと言われていましたが、見事に正宗の勝利となったのは他でもなくまさに上人のお力によるものです。

 


(御書編纂メンバーのインタビューにお答えする故・日亨上人)


それから遅れること42年。


約半世紀遅れて宗門から御書(平成新編)が刊行されました。

この宗門の御書が刊行された時「今まで使っていた学会版の御書は間違いが多い」と喧伝され始めました。

すると堰を切ったように
「学会の御書は間違いが多い!」「間違いが多い!」という風潮が広まりました。

まるで「御書全集」が間違っているかのようです。

42年間も使っておいてです。

どの口が言うのでしょう。

まだ、平成新編を買ったあと御書全集を捨てる人まで出てくる始末です。

挙げ句の果ては上人がこのように臨終間際まで心血を注いで完成させた「富士宗学要集」まで「学会の本だから」と言って棄てる人まで出てくるありさま。

ここで勘違いしないでいただきたいのは、御書全集は学会が発行元で編者は日亨上人ということです。

全集の序文には「敢えて老身の廃朽に託して其の責任を回避するものではない」

つまりこの御書全集は
「ジイさんが作ったからと言って責任逃れはしない!」
とキッパリと仰せです。

御書全集に誤りが多いとののしるのは、日亨上人の長年の御研鑽をののしる事と同じことなのです。


その他、紫宸殿御本尊のこと、他宗他山を廻って資料を蒐集したことなど、まだまだたくさんのインタビュー記事が残っていますが、ここに紹介しきれなかった記事はまたいつか時期をみて紹介したいと思います

日亨上人のお徳に感謝申し上げ合掌する次第です。


(読みやすいよう加筆・訂正いたしました)

 

 


(左・日達上人と日淳上人の御顔が見える)


妙光寺支部
城内啓一郎 拝