前回に引き続き日亨上人のインタビュー記事を掲載いたします。

 



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

問 江戸小梅常泉寺というのがありますけれども

それは大石寺で作ったんじゃない。
もと天台宗でできた。


天台宗でできたものが今度ですね、什門派の妙満寺の方でそれを補った。

本行坊の日優という人がその時代に日精上人の教化を受けた。
それで大石寺に移った。


眞光寺がその時にできた。
そんな関係で大石寺が総本山という名称ができた。


総本山という名称はですね、小さな本山には付けられなかったんですよ。
政府の制度でね。


ですから孫末、曾孫末寺ができたのですからね。
常泉寺は今度は末寺の眞光寺というふうになった。
眞光寺に末寺がありますから、曾孫末を持ってるから、今度は総本山と言えるようになった。


ですから総本山という名称を大石寺がもらったのは、わしどもの働きなんじゃ。


百坊以下の小さな本山には総本山なんという名称はくれなかった。
曾孫末まで持っているんじゃから総本山にしてもらった。
そりゃ大本山と総本山は同じようなものだけれども、やっぱり総本山のほうが良いからな。
大きいように思われる。


明治30年頃じゃ60.70の末寺を持って総本山というと笑われちまう。
そんな総本山はないです。


問 日精上人というお方は政治的にも相当力があったのでしょうか?

そのですね、政治上に運動された形跡はないですがね、その敬台院はですね、馬鹿に精師を、精師の青年時代から、何と言ったらいいですか、育ててきた人ですからね。

問 その後、敬台院と仲が悪くなった。

それは何から仲が悪くなったか知らんけれども、敬台院の書いたものによるとですね、「日精上人の書いた御本尊など拝みたくない」なんていうことが書いてあるくらいですからね。
信仰上の衝突だと思うね。
精師のやり方がどうも敬台院の方からいうと誠意が無いとかどうとか言う問題じゃないですかね。


問 この頃金沢に布教したわけですか?

いや、金沢はね今の常在寺がですね、下谷にあった。
上野の今の美術学校
(東京芸大)の方に上がる坂ですね、あの坂のもっと上の方にあったんじゃないですか。


それですから、金沢家の前田大納言のですね、邸が今の東京大学でしょう。(東大と芸大は隣り合わせ)
あそこに屋敷があって、近番者がみな詰めていたんですから。
その人たちが常在寺に参詣したらしいですね。


向こうの人の金沢の伝説なんかでは日精上人がどうかすると道路演説をやったと言っている。
それはどうかと思いますね。
やった方が良いけれども、道路演説をやったということは書いてありませんね。
道路演説はできないらしいですな、そんなことをやったすぐに縛られてしまう。


結局、まあ、相当に布教されたらしいですね。
それで近いですからね、再々前田家の屋敷から忍んで参詣にきたらしい。
それが元になってですね又、国に帰って信仰したらしい。
ですから精師の布教が元ですね。


問 徳川時代を通してとうとう加賀では免許にならなかった?

ならない。
運動はあったです。
けれどもとうとう免許にはならない。
やはり捕まったりした。
ええ、捕まって切腹した人が一人や二人あったんじゃないですか。


というのは、尾張の法難の方はね百姓・町人が多かった。
金沢の方はね、士分
(武士階級)が多い。
百姓は無論いないですがね、町人はあまり少なかった。
たいがい士分だったです。
中にはですね、役付きをした相当な人があったですよ。
家老というほどではなくともね、何かの奉行
(部長職)みたいなことをやってた人があったんですよ。
それでも表向きの信仰はできなかった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(あとがき)


この後のいきさつは妙鏡に出ていたとおりの金沢法難がはじまりました。

日精上人の布教から本行坊、常泉寺、常在寺と江戸に日蓮正宗のお寺が誕生しました。

我が品川・妙光寺の信徒もお寺ができるまでは常泉寺に参詣していたといわれています。

また日精上人の説法を聴いて日寛上人は得度されました。

学会では日精上人は要法寺出身の「造仏論者」とレッテルを貼って激しく誹謗しております。

もし造仏論者だとしたらこの時入信した前田藩の信者さんたちは皆、一尊四師の仏像を拝んでいたこなとになります。

以前、お山で金沢法難の展示会をやっていました。
その展示品の中に御禁制である大石寺信仰を隠すために「折畳御本尊」という勤行する時だけ開く苦肉の策の御本尊を拝見しました。
カモフラージュするなら仏像を拝めばいいことです。
しかし仏像などはどこにもありません。


また、精師が造仏論者だとしたら日寛上人は造仏論者のお弟子さんになってしまいます。

現在の創価学会員はこの日寛上人のコピー本尊を拝んでいます。

学会の主義・主張はこのように支離滅裂なのです。

このように天に唾する創価学会には未来はありません。

池田太作も死んだことだし、この際一日も早く脱会して正宗寺院の門をたたきましょう^_^

あなたの勇気ある一歩をお待ちしております。

妙光寺支部
城内啓一郎でした