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日辰上人は富士五山統合を目指しましたが、機が熟さなかったのか、あまりにも日辰上人の造仏論が強烈であったからか、この事業は成功しませんでした。

しかし、これ以後富士五山の各本山は多くの貫首を要法寺から迎えるようになったのです。

その後、西山本門寺18代日順上人も要法寺から西山へ入った方でありました。

ちょうどその頃の西山は荒廃し、再建が急がれておりました。
それは「天正の法乱」があったからであります。

(前出は天文の法乱)

「天正の法乱」というのは、天正9年3月、西山本門寺13代日春上人が、武田勝頼の支持を得て、北山本門寺から重宝箱を持ち出したのが発端となりました。
(日春は武田の出身)


武田勝頼は西山本門寺を正嫡の寺と認め、安堵状を与えたものでありますが、この処置も落ち着かないうちに、翌天正10年3月、武田家は徳川家康により天目山で滅亡したのであります。

その時徳川家康はこの武田攻めに当たり、北山本門寺の檀家武士団を結成し、重宝を重須に返還する約束で、大聖人様直筆の「鉄砲曼荼羅」を掲げて進軍したと伝えられております。

その重宝箱は炎上する甲府館の毘沙門堂で発見され、駿河
(静岡)にもたらされました。

ところが、この重宝を巡って、今日でも謎とされる不可解な処置がなされたのであります。

当時の駿河奉行は本多作左衛門重次
(通称:鬼の作左)でありました。
云うまでもなく家康の重臣であります。

(三河三奉行の一人)

その重次が家康と北山との約束を無視して、その重宝を西山本門寺へ納めてしまったのであります。

これに憤激した北山側は、西山本門寺の本堂を焼き討ちし、激烈な斗争となったのですが、この事件により再び重宝は行方不明となりました。

後日この重宝は入江城
(静岡市の隣、旧清水市)で発見され、西山も北山も双方目安(証拠・引き合い)を上げて争うことになったのであります。

最後は駿府城の家康の御前で裁断となり、結果重宝は北山に戻され、西山は闕所(没収)となり、日春上人は引退退山となって西山は衰退したのであります。

 

(駿府城跡にある家康像)


(残念ながら、この騒動のなか肝心の"ニ箇相承書"を紛失してしまいます)

そこに出現したのが、先の日順上人で西山再建のために東西に活躍し、多くの事績を残されました。

また、日順上人と法縁であった囲碁・初代名人本因坊の関係を調べてみると、その結びつきが織田信長の首塚にあった事が分かりました。

これは決して猟奇的なフィクションではありません。

この説は「原家記」が出処となっております。

「原家記」というのは、信長に仕えた家臣の原宗安の家記で、現在西山本門寺に保管されています。


この記録によると
「宗安の父と兄は本能寺で討死をとげた。宗安は混乱の寺から、ようやく父と兄の首をとり出したが、この時火中から信長の首もとり出して、ひそかに本能寺を脱出した。山道づたいに京都を離れつて、やっと駿河にたどり着き、本門寺に潜伏した。そこで持ち込んだ3つの首を本堂裏手に埋めて、仮りに自然石を立てて目印にした。このあと、宗安は医師となり水戸家に仕えて原性を名乗り、子孫はいずれも官医になった」

本能寺の変のあった夜、信長の前で囲碁を打ち、後世に有名な「三劫の局譜」を残したのが本因坊であります。

 


(織田信長肖像画)


この原宗安と本因坊は以前から深い交友がありました。

こうなると本因坊が信長の首に関係していることは言うまでもありません。



もともと本因坊は京都妙満寺の本因坊に住んだ日海という僧侶でした。

権大僧都
(ごんだいそうず)いうから並の平僧ではありません。

元来僧侶日海の顔が陽で、本因坊の顔が陰であるべきに、あまりに囲碁の世界で有名になったために、今では逆になってしまいました。


また、この原氏の子息が日順上人で、自筆の過去帳が西山本門寺に現存しております。

この自筆過去帳に信長と本因坊の法名が記入されており、過去帳の様式から見て日順上人と織田信長と本因坊は法縁的に密接な関係を持っていたことがこれで明白となったのであります。


西山本門寺には信長の首を葬ったという塚があります。

今ではその塚の上に植えられたヒイラギが大木に生長して静岡県の天然記念物に指定されています。

 



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《あとがき》
このように西山と北山の反目争いから、日蓮正宗の宗旨の根幹を成す「ニ箇の相承書」が紛失しました。

少なからず要法寺・日辰が言った「ニ箇の相承など打っちゃってしまえ!」
ということが現実となってしまいました。

この後、日蓮正宗では中興の祖たる日寛上人が出現し、正宗の教学がパワーアップしていきます

 

~最終号に続く~