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次の日助置文はその(三箇の重宝の守護)を物語っております。

「日蓮聖人の御影、並びに御下文、又園城寺申し状の事。
この三つの重宝は故上
(日興上人)の御遺言により、上野の老僧日目、日仙、日善の三人、大石寺に於いて三十日を十日番に守護し奉る処、日目は故上の置状に違背し、日仙は天目一同の義(方便品不読)なり。
よって日善一人許さる可きの由、衆檀評定了んぬ。
其の後、日善の計らいとして、上野の総領南條五郎左衛門尉に之を預け畢んぬ。
其の預かり状歴然なり。
之に依って日蓮聖人の御影像計り之を取り了んぬ。
絶工の重宝は時長取り籠めで之を取り出さず、いま、国方の沙汰に及び残らず之を取り、本門寺の重宝為る可きなり。
依って存知の為に置状件の如し。

延文元年十月七日 日助在判 」

大石寺は日目上人の御入滅で、代わって日道上人がその任に当たりましたが、その日道上人も7年後には遷化され日行上人の時代になっておりました。


しかし、その日道上人は、大石寺の東坊地を巡って、日郷との間に争いが生じ、以来70余年の大石寺と小泉久遠寺の離反となったのであります。

上野の南條家嫡流の高光は幼少だったために、総領職を長時が継ぎましたが、時綱・時長二代にわたって小泉の日郷党でありましたから三箇の重宝を大石寺に安置して、警護するに不便が生じ自然に南條時長が預かったのでありましょう。

この延文元年の日助置文では、三箇の重宝の所在が両分されたとあります。


日助上人はその後、三箇の重宝を取り戻して上野の東光寺に移したらしく、保田の妙本寺11代日要上人は、御書の端書に
「大石寺三箇の大事、東台谷戸に在り」と記しています。

 

「東台谷戸」(とうがいがいと)とは、上野の東光寺のことであります。

 


(大石寺の西側にある東光寺、現在は日蓮宗寺院)


戦国時代までは、今の上野の東光寺にあったことを房州妙本寺門徒も知っていたのであります。

今、北山本門寺が珍蔵する正御影は、重須でも「東光寺の御影」といっているのであります。

上野の東光寺は日興上人の本六僧の日禅上人が創建した寺でした。

日禅上人は河合の出身で由井氏
(日興上人の家系)に深縁かあったことは確かであります。

日興上人に随従して大石寺に南之坊を起こし、日興上人の母妙福尼の碑を立てて芝川の妙興寺の寺基としております。

家中抄には
「河合の妙興寺と東光寺は由井一家の菩提所なる故に日禅住持し給う。元徳三年三月十二日、日禅終焉の後は、日善住持なり」
と日禅上人の跡を日善上人が相続したことを誌しています。


妙蓮寺は、やはり日興上人の本六僧の一人、日華上人の在世、正中元年南條時光の妻妙蓮尼の一周忌に当たり自邸を寺とし、望まれて開山となりました。


その後は時光の子息日相・日眼が続いて住持しました。

以上が富士五山の概略です。

日蓮大聖人は御一生の間に3度の国家諫暁を行なっています。

その相手は鎌倉幕府で、武家政治の中心が鎌倉であったからでありました。

そのため大法難を受けられ、伊豆伊東の流罪、竜の口の首の座、佐渡の流罪、身延への隠棲となったのであります。

しかし、朝廷への諫暁は日興上人をはじめ、御弟子方へ遺命されました。


前述の重宝「下文」や「園城寺申状」の意義はここにあったのであります。

そのため、日蓮宗は各派とも一斉に京都に進出しました。

やがて、再び政治の中心となった京都に日蓮宗各派12の本山が出来上がるのです。


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《あとがき》

「三箇の重宝」は最初大石寺にて厳護されていたようです。

その後、日目上人が御遷化され、日仙上人は讃岐に下向し、日善上人一人がその任に当たっていましたが、何かの都合で南條家で預かるようになりました。

しかしまた日助上人がもう一度預かる事になり上野の東光寺に格納されました。

このレポートではその後の成り行きが分かりませんが、御影さまは重須に移転し、大聖人様がおしたためになった園城寺申状と後宇多天王の下文は現在の所在が不明となっていることは残念でなりません。


〜以下、次号に続く〜