夫は、5月20日の朝、6時55分頃、何の苦しみもない世界へ旅立ちました。
私が駆けつけたのは、7時を数分過ぎていました。
穏やかに、ただ眠っているだけのようでした。
モニターの3本の線が、真っ直ぐな直線になっていることだけが、全てが終わったことを表していました。
14日に急変して以来、夫は苦しそうな息の中、頑張ってくれました。
脈泊は、多い時には220を越え、血圧は、50代の時も多々ありました。
SPO2は、高濃度酸素のおかげか、大抵100に張り付いていましたが、無呼吸が出ると急激に下がりました。
痰が少なくなったようなので、いいことなのかと思ったら、痰そのものが作られなくなるのだそうです。
また、尿が出なくなってきましたが、水分を摂っても、尿として作られず、全身に回ってしまって浮腫がでるようになるそうでした。
腎臓に負担がかかり、心臓にも多大な負担をかけているとのことでした。
血圧が低いので、ベッドの足の方を上げ、頭の方を下げる姿勢を取らされていました。
見るからに苦しそうなので、血圧が80以上あるときなどに、看護師さんにお願いして、ベッドを下げてもらっていました。
17日、一旦持ち直したかのように見えました。
朝、私が行って、「来たよ」と声をかけると、うんうんと言うように、2回頷いてくれました。
まばたきをしたりして、意識があるような感じでした。
おむつ替えで、カーテンの外に出ていたとき、「あら~手が動くのね、奥さんに見せてあげて」という看護師さんの声が聞こえました。
またその看護師さんは、私を呼んでくれて、両足の踵を見せてくれました。
一旦治った褥瘡が、再びできそうになったので、緩衝剤を宛がってもらっていましたが、それがきれいに治っていました。
私が見たいだろうからと、また緩衝材で覆う前に見せてくれたのでした。
爪が少し伸びていたので、切りました。
切りながら、これが最後の爪切りになるかもしれない..と思いました。
その日の担当の、別の看護師さんが、吸引をしました。
吸引していたら、血が一緒に引けてきました。
その後、口腔ケアをしてくれたのですが、見るからに乱暴で、夫はものすごく嫌がりました。
高濃度の酸素で、口の中が乾燥して、痰がこびりついているところを歯ブラシでゴシゴシこすっていました。
簡単に傷がついて、血がでてきました。
見かねて、私が「いつもやっているようにお湯でやらせてもらえませんか」と聞いたのですが、「生命の危険があるときには、私たちがやります。爪を切るくらいはいいですけどね」と言われました。
口腔ケアが終わって看護師さんが出て行きました。
ケアの最中から夫の容態が変わり、モニターの数値が乱高下しました。
その後、意識を取り戻すことはありませんでした。
しばらくして、数値的には落ち着いてきたので、私は家に帰りました。
毎日こういう生活を続けました。
もう治らないことはわかっていました。
治らないのに、ずっと病院へいて、意識がない夫に付き添って、家にも帰らず、眠りもしないでいたら、早く決着がついて欲しいと望むようになるかもしれず、それが嫌でした。
割り切らなきゃと思いました。
その時っていつくるかわからないけど、その時まで、くよくよするのはやめようと思いました。
今夜かもしれないし、ずっと先かもしれないし..。
あきらめが前提でした..。
もう治らないというあきらめ..
私の家から病院までは、歩いて10分ほどです。
何かあったら、電話で呼んでもらって、それまでは心配しないで、普通に生活しなければと思いました。
いつでも出かけられるように用意をしていました。
困ったのはお風呂に入る時でした。
洗面所まで、電話の子機を持って行きましたが、髪を洗っているときなどは、びくびくものでした。
ほぼ毎晩、電話で呼ばれました。
脈拍が落ちたのでとか、呼吸が困難になったのでとかと言われ、駆けつけました。
病室へ着くと、既に数値が回復していて、その晩の担当の看護師さんに、申し訳なさそうに謝られました。
大抵、夜の9時とか遅くても11時位の呼び出しでした。
数値が安定しているので、それほど遅い時間にならないうちに、家に帰って眠ることができました。
18日、ぼんやりと、今後のこととか、考えなきゃいけないんだろうなと思いました。
寝不足も相まって、息苦しくなりました。
夫が折角時間をくれているのに、私は何もやれていない..。
今のうちに片付けよう、捨てられるものは捨てようと思いました。
後からでは捨てるのも辛くなるだろうから..今でも辛いのには変わりないけど..。
その前に時間切れになれば、それはそれで仕方ない。
とにかく、何かをやっていないとダメだな..。
気持ちが不安定で、落ち着きませんでした。
階段にある、目印の羊さん達を片付けました。
洗面所のタオル掛けにぶら下げてあった、おむつ処理用のビニール袋や、いろいろなものを片付けました。
もう戻っては来ないんだからと、自分に言い聞かせました。
そして..
海の用品を捨てることにしました。
これは、もう使うことがないとわかっていても、どうしても捨てられずにいたものです。
この日の夫は数値的には落ち着いていましたが、額に冷たい汗をかいていて、呼吸も、んぐっんぐっと音がして、苦しそうでした。
いつものように熱いタオルをもらって、顔や手足を拭きました。
目の辺りを拭いた時も、反応はありませんでした。
夫に、ありがとね..私も後から行くから待っててね、と語りかけました。
耳は最後まで聞こえるそうなので、聞いてくれたかしら..
こころの中で言うだけじゃだめだと思い、今言わないとと思って言いました。
口の中を見たら血だらけでした。
唇が乾燥して大きなかさぶたができていて、それが剥がれたり、血の塊があったりして、口の中は汚れきっていました。
今日の看護師さんは乱暴ではなく、口腔ケアをしてくれましたが、汚れは取り切れませんでした。
体温は6度6分でした。
それなのに、胸のあたりから背中までびっしょりと冷たい汗をかいていました。
看護師さんに言って、病衣を取り替えてもらいました。
背中もきれいに拭いてくれたようで、その後は、さっぱりとして汗もかかなくなりました。
この日は排尿もあったようです。
一時的ながら、よかったと喜びました。
呼吸が苦しそうでした。
体を横向きにすると、舌根の落ち込みが緩和されて、少し楽になっていたのですが、もうそれも効果がないのかも..。
手を握りながら、ねぇ..呼吸して..レギュレーターで吸うみたいに息を吸って...パラオ行ったねぇ..きれいだったねぇ..と話しかけました。
なんの反応もないけど、もしかして聞こえていて、あのきれいな海を思い浮かべてくれたらいいなと願いました。
この日の夜、エアウェイでは呼吸が確保できなくなったので外し、代わりに、口の中に、プラスチックの板を差し込み、舌根を抑えて気道を塞がないようになっていました。
また、肩の下にタオルを丸めて挟み、のけぞるような姿勢で寝かせられていました。
血圧は50位、SPO2は100でした。
可哀想に..。
苦しいだろうなぁ...。
私にはその姿勢を変えてあげることができない..。
もう一回電話が来たら、それでお終いだろうなと思いました。
お終いになった方が、夫は楽だろうなと思いました。
翌19日朝、病院へ行ってみると、心配したほどひどい状態ではありませんでした。
脈泊は110、血圧は65、SPO2は100、呼吸数は22位でした。
でもいかにも姿勢が苦しそうなので、看護師さんに言ったら、私もそう思う、日中は先生もいるし、これ、とりましょうねと言って、口の中のプラスチックの板と、肩のタオルをとってくれました。
タオルを畳んで頭の下に入れてくれました。
エアウェイも今日は入っていないので、単に酸素マスクが宛がわれているだけの状態になりました。
今まで仰向けだったのを、横向きにしてくれました。
SPO2は下がらず、100のままでした。
まもなくおむつ替えがありました。
今日も排尿があったそうです。
そして、昨夜、大量の排便があったそうで、病衣を取り替えなければならないほどだったそうでした。
それで血圧が下がったようだが、少しずつ回復してきているとのことでした。
その後、吸引してくれました。
かなり奥まで入って、引けたようでした。
粘性が高い血液が引かれて出てきました。
看護師さんは、これ、ずいぶん古そうだと言っていました。
これが気管に詰まっていたのだから、ずいぶん苦しかったろうな..可哀想に..。
吸引の後、口腔ケアをやってくれるというので、お湯でやってもらえませんかと聞きました。
どういう風にやるの?と聞かれたので、こういう風にと説明したら、じゃ、ずっとここにいますから、奥さんがやって下さいと言われました。
14日の急変以来初めて、モアブラシで、ゆっくりと、ほっぺの裏側をマッサージしました。
血がいっぱいついてきました。
部屋についている手洗い器で、一回毎に洗って、またお湯で暖め、マッサージを繰り返しました。
上あごについている血もきれいにとれました。
看護師さんはずっと付き添っていてくれて、ケアしている最中は酸素マスクを持ち上げ、洗いに行っているときはかぶせて、というのをやっていてくれました。
途中、SPO2が下がり、モニターから警告音がでましたが、看護師さんは、大丈夫ですよ、続けてくださいと言って、続けさせてくれました。
体を更に横向きにしてもらって、呼吸は落ち着きました。
その後、酸素を8リットルに下げてくれました。
呼吸は楽そうで、ほとんど音はしていませんでした。
夫の枕元に腰掛けて、手をとって握っていました。
平和で、幸せすら感じました。
その夜は、病院から電話がきませんでした。
そして
翌朝、夫は亡くなりました。
私が前日に見たままの状態でした。
よかった...あの逆さ吊りみたいな態勢じゃなくて..
最期の瞬間には、間に合わなかったけど、なんか、夫がそういう風にして、私にそれを見せないように計らってくれた気がしています。
間もなく息が絶えてしまうのを見せて、私が取り乱さないようにと。
夫はIVHをしていましたが、他には何も管がついていません。
どこも体を傷つけることをしないで済みました。
こんなに長い寝たきり状態なのに、褥瘡すらありませんでした。
もしも、この状態が長引いたら、早晩、尿を作ることができなくなって、浮腫が出たり、褥瘡で苦しむことになったと思います。
きれいなままの体で、旅立つ夫。
これでよかったんだ..と、自分の心を納得させました。
そのせいか、その場では涙も出ませんでした。
葬儀のことも何も考えていなかったので、病院から紹介された葬儀屋さんに頼みました。
すぐ来てくれて、家に運んでくれました。
そして、夫のベッド...ウォーターベッドに寝かせました。
生きている時に寝かせたかったけど..
22日が友引なので、葬儀は23日になり、そのおかげで、夫はお通夜までの丸2日間、家にいることができました。
今、全てが終わり、私は家にひとりぼっちです。
遺影に選んだ夫の写真...
診断を受けてから1年ほど経った頃の写真で、なんの屈託もない笑顔で笑いかけてくれています。
これで、このブログを閉じようと思います。
今まで、沢山の温かいコメント、メッセージ、ありがとうございました。
皆さまのおかげで、どれほど救われたことか..。
本当にありがとうございました。
ブログの更新はもうしませんが、しばらくの間、このままにしておきたいと思っています。
ここには、診断を受けてからの夫がいます。
ここがあれば、いつでも、会いにこれるんじゃないかと、そんな風に思っています。
いつの日か、ここが消えたら、私が、一人で生きる新しい道を見つけられたと思ってくださいませ。
本当に皆さま、ありがとうございました。
私が駆けつけたのは、7時を数分過ぎていました。
穏やかに、ただ眠っているだけのようでした。
モニターの3本の線が、真っ直ぐな直線になっていることだけが、全てが終わったことを表していました。
14日に急変して以来、夫は苦しそうな息の中、頑張ってくれました。
脈泊は、多い時には220を越え、血圧は、50代の時も多々ありました。
SPO2は、高濃度酸素のおかげか、大抵100に張り付いていましたが、無呼吸が出ると急激に下がりました。
痰が少なくなったようなので、いいことなのかと思ったら、痰そのものが作られなくなるのだそうです。
また、尿が出なくなってきましたが、水分を摂っても、尿として作られず、全身に回ってしまって浮腫がでるようになるそうでした。
腎臓に負担がかかり、心臓にも多大な負担をかけているとのことでした。
血圧が低いので、ベッドの足の方を上げ、頭の方を下げる姿勢を取らされていました。
見るからに苦しそうなので、血圧が80以上あるときなどに、看護師さんにお願いして、ベッドを下げてもらっていました。
17日、一旦持ち直したかのように見えました。
朝、私が行って、「来たよ」と声をかけると、うんうんと言うように、2回頷いてくれました。
まばたきをしたりして、意識があるような感じでした。
おむつ替えで、カーテンの外に出ていたとき、「あら~手が動くのね、奥さんに見せてあげて」という看護師さんの声が聞こえました。
またその看護師さんは、私を呼んでくれて、両足の踵を見せてくれました。
一旦治った褥瘡が、再びできそうになったので、緩衝剤を宛がってもらっていましたが、それがきれいに治っていました。
私が見たいだろうからと、また緩衝材で覆う前に見せてくれたのでした。
爪が少し伸びていたので、切りました。
切りながら、これが最後の爪切りになるかもしれない..と思いました。
その日の担当の、別の看護師さんが、吸引をしました。
吸引していたら、血が一緒に引けてきました。
その後、口腔ケアをしてくれたのですが、見るからに乱暴で、夫はものすごく嫌がりました。
高濃度の酸素で、口の中が乾燥して、痰がこびりついているところを歯ブラシでゴシゴシこすっていました。
簡単に傷がついて、血がでてきました。
見かねて、私が「いつもやっているようにお湯でやらせてもらえませんか」と聞いたのですが、「生命の危険があるときには、私たちがやります。爪を切るくらいはいいですけどね」と言われました。
口腔ケアが終わって看護師さんが出て行きました。
ケアの最中から夫の容態が変わり、モニターの数値が乱高下しました。
その後、意識を取り戻すことはありませんでした。
しばらくして、数値的には落ち着いてきたので、私は家に帰りました。
毎日こういう生活を続けました。
もう治らないことはわかっていました。
治らないのに、ずっと病院へいて、意識がない夫に付き添って、家にも帰らず、眠りもしないでいたら、早く決着がついて欲しいと望むようになるかもしれず、それが嫌でした。
割り切らなきゃと思いました。
その時っていつくるかわからないけど、その時まで、くよくよするのはやめようと思いました。
今夜かもしれないし、ずっと先かもしれないし..。
あきらめが前提でした..。
もう治らないというあきらめ..
私の家から病院までは、歩いて10分ほどです。
何かあったら、電話で呼んでもらって、それまでは心配しないで、普通に生活しなければと思いました。
いつでも出かけられるように用意をしていました。
困ったのはお風呂に入る時でした。
洗面所まで、電話の子機を持って行きましたが、髪を洗っているときなどは、びくびくものでした。
ほぼ毎晩、電話で呼ばれました。
脈拍が落ちたのでとか、呼吸が困難になったのでとかと言われ、駆けつけました。
病室へ着くと、既に数値が回復していて、その晩の担当の看護師さんに、申し訳なさそうに謝られました。
大抵、夜の9時とか遅くても11時位の呼び出しでした。
数値が安定しているので、それほど遅い時間にならないうちに、家に帰って眠ることができました。
18日、ぼんやりと、今後のこととか、考えなきゃいけないんだろうなと思いました。
寝不足も相まって、息苦しくなりました。
夫が折角時間をくれているのに、私は何もやれていない..。
今のうちに片付けよう、捨てられるものは捨てようと思いました。
後からでは捨てるのも辛くなるだろうから..今でも辛いのには変わりないけど..。
その前に時間切れになれば、それはそれで仕方ない。
とにかく、何かをやっていないとダメだな..。
気持ちが不安定で、落ち着きませんでした。
階段にある、目印の羊さん達を片付けました。
洗面所のタオル掛けにぶら下げてあった、おむつ処理用のビニール袋や、いろいろなものを片付けました。
もう戻っては来ないんだからと、自分に言い聞かせました。
そして..
海の用品を捨てることにしました。
これは、もう使うことがないとわかっていても、どうしても捨てられずにいたものです。
この日の夫は数値的には落ち着いていましたが、額に冷たい汗をかいていて、呼吸も、んぐっんぐっと音がして、苦しそうでした。
いつものように熱いタオルをもらって、顔や手足を拭きました。
目の辺りを拭いた時も、反応はありませんでした。
夫に、ありがとね..私も後から行くから待っててね、と語りかけました。
耳は最後まで聞こえるそうなので、聞いてくれたかしら..
こころの中で言うだけじゃだめだと思い、今言わないとと思って言いました。
口の中を見たら血だらけでした。
唇が乾燥して大きなかさぶたができていて、それが剥がれたり、血の塊があったりして、口の中は汚れきっていました。
今日の看護師さんは乱暴ではなく、口腔ケアをしてくれましたが、汚れは取り切れませんでした。
体温は6度6分でした。
それなのに、胸のあたりから背中までびっしょりと冷たい汗をかいていました。
看護師さんに言って、病衣を取り替えてもらいました。
背中もきれいに拭いてくれたようで、その後は、さっぱりとして汗もかかなくなりました。
この日は排尿もあったようです。
一時的ながら、よかったと喜びました。
呼吸が苦しそうでした。
体を横向きにすると、舌根の落ち込みが緩和されて、少し楽になっていたのですが、もうそれも効果がないのかも..。
手を握りながら、ねぇ..呼吸して..レギュレーターで吸うみたいに息を吸って...パラオ行ったねぇ..きれいだったねぇ..と話しかけました。
なんの反応もないけど、もしかして聞こえていて、あのきれいな海を思い浮かべてくれたらいいなと願いました。
この日の夜、エアウェイでは呼吸が確保できなくなったので外し、代わりに、口の中に、プラスチックの板を差し込み、舌根を抑えて気道を塞がないようになっていました。
また、肩の下にタオルを丸めて挟み、のけぞるような姿勢で寝かせられていました。
血圧は50位、SPO2は100でした。
可哀想に..。
苦しいだろうなぁ...。
私にはその姿勢を変えてあげることができない..。
もう一回電話が来たら、それでお終いだろうなと思いました。
お終いになった方が、夫は楽だろうなと思いました。
翌19日朝、病院へ行ってみると、心配したほどひどい状態ではありませんでした。
脈泊は110、血圧は65、SPO2は100、呼吸数は22位でした。
でもいかにも姿勢が苦しそうなので、看護師さんに言ったら、私もそう思う、日中は先生もいるし、これ、とりましょうねと言って、口の中のプラスチックの板と、肩のタオルをとってくれました。
タオルを畳んで頭の下に入れてくれました。
エアウェイも今日は入っていないので、単に酸素マスクが宛がわれているだけの状態になりました。
今まで仰向けだったのを、横向きにしてくれました。
SPO2は下がらず、100のままでした。
まもなくおむつ替えがありました。
今日も排尿があったそうです。
そして、昨夜、大量の排便があったそうで、病衣を取り替えなければならないほどだったそうでした。
それで血圧が下がったようだが、少しずつ回復してきているとのことでした。
その後、吸引してくれました。
かなり奥まで入って、引けたようでした。
粘性が高い血液が引かれて出てきました。
看護師さんは、これ、ずいぶん古そうだと言っていました。
これが気管に詰まっていたのだから、ずいぶん苦しかったろうな..可哀想に..。
吸引の後、口腔ケアをやってくれるというので、お湯でやってもらえませんかと聞きました。
どういう風にやるの?と聞かれたので、こういう風にと説明したら、じゃ、ずっとここにいますから、奥さんがやって下さいと言われました。
14日の急変以来初めて、モアブラシで、ゆっくりと、ほっぺの裏側をマッサージしました。
血がいっぱいついてきました。
部屋についている手洗い器で、一回毎に洗って、またお湯で暖め、マッサージを繰り返しました。
上あごについている血もきれいにとれました。
看護師さんはずっと付き添っていてくれて、ケアしている最中は酸素マスクを持ち上げ、洗いに行っているときはかぶせて、というのをやっていてくれました。
途中、SPO2が下がり、モニターから警告音がでましたが、看護師さんは、大丈夫ですよ、続けてくださいと言って、続けさせてくれました。
体を更に横向きにしてもらって、呼吸は落ち着きました。
その後、酸素を8リットルに下げてくれました。
呼吸は楽そうで、ほとんど音はしていませんでした。
夫の枕元に腰掛けて、手をとって握っていました。
平和で、幸せすら感じました。
その夜は、病院から電話がきませんでした。
そして
翌朝、夫は亡くなりました。
私が前日に見たままの状態でした。
よかった...あの逆さ吊りみたいな態勢じゃなくて..
最期の瞬間には、間に合わなかったけど、なんか、夫がそういう風にして、私にそれを見せないように計らってくれた気がしています。
間もなく息が絶えてしまうのを見せて、私が取り乱さないようにと。
夫はIVHをしていましたが、他には何も管がついていません。
どこも体を傷つけることをしないで済みました。
こんなに長い寝たきり状態なのに、褥瘡すらありませんでした。
もしも、この状態が長引いたら、早晩、尿を作ることができなくなって、浮腫が出たり、褥瘡で苦しむことになったと思います。
きれいなままの体で、旅立つ夫。
これでよかったんだ..と、自分の心を納得させました。
そのせいか、その場では涙も出ませんでした。
葬儀のことも何も考えていなかったので、病院から紹介された葬儀屋さんに頼みました。
すぐ来てくれて、家に運んでくれました。
そして、夫のベッド...ウォーターベッドに寝かせました。
生きている時に寝かせたかったけど..
22日が友引なので、葬儀は23日になり、そのおかげで、夫はお通夜までの丸2日間、家にいることができました。
今、全てが終わり、私は家にひとりぼっちです。
遺影に選んだ夫の写真...
診断を受けてから1年ほど経った頃の写真で、なんの屈託もない笑顔で笑いかけてくれています。
これで、このブログを閉じようと思います。
今まで、沢山の温かいコメント、メッセージ、ありがとうございました。
皆さまのおかげで、どれほど救われたことか..。
本当にありがとうございました。
ブログの更新はもうしませんが、しばらくの間、このままにしておきたいと思っています。
ここには、診断を受けてからの夫がいます。
ここがあれば、いつでも、会いにこれるんじゃないかと、そんな風に思っています。
いつの日か、ここが消えたら、私が、一人で生きる新しい道を見つけられたと思ってくださいませ。
本当に皆さま、ありがとうございました。