1944年1月26日・建物疎開 | 社長力検定「後継者育成塾」

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疎開(そかい)とは、

  • (軍事作戦用語、原義)前進中の軍隊の距離・間隔をひらくこと。集団行動している兵を散らし、攻撃目標となり難い状況を作りながら作戦行動を行うこと。
  • 第二次世界大戦途中から、大日本帝国政府が用いた(欺瞞的な)用法)都市部の住民や産業を田舎へと移動(避難)させること。

第二次世界大戦後の日本でもいまだに、避難を「疎開」と呼ぶ習慣が残っている人がいる。東日本大震災でも使われた。

 

 
戦時中の東京都のポスター(1944年)

 

 
学童疎開

日本において第二次世界大戦末期の「学童」とは、国民学校初等科に通っていた児童を意味する。大日本帝国政府は「縁故者への疎開」を奨励したが、学校毎の集団疎開学校疎開)も多く行われた。

 

疎開計画(1944年7月)

 

疎開都府県 都市 疎開児童数 受け入れ予定県
東京都 区部 200,000 宮城、山形、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、新潟、静岡、長野、山梨
神奈川県 横浜市 24,900 静岡
神奈川県 川崎市 8,100 静岡
神奈川県 横須賀市 7,000 静岡
大阪府 大阪市 80,000 滋賀、奈良、京都、和歌山、石川、福井、徳島、香川、愛媛
兵庫県 神戸市 23,700 鳥取、島根、岡山
兵庫県 尼崎市 6,300 神戸市の受け入れと同じ
愛知県 名古屋市 35,000 岐阜、静岡、三重
福岡県 門司市 2,900 福岡県からは山口、佐賀、熊本、大分
福岡県 小倉市 3,400 福岡県からは同様
福岡県 戸畑市 1,700 福岡県は同様
福岡県 若松市 1.700 福岡県は同様
福岡県 八幡市 5,300 福岡県は同様

沖縄県の疎開児童数(1944年9月現在)

 

疎開先県 性別 初等科(1-6年計) 高等科 男女合計
宮崎 1,207 384 2,643
宮崎 776 276  
熊本 1,257 391 2,602
熊本 610 344  
大分 117 67 341
大分 99 58  
小計 2,581 842 5,586
小計 1,485 678  

 

建物疎開

日本において当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的。防火地帯防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去することである。跡地は、人々の避難先や復旧時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、投下された焼夷弾の数が多量だった。本来の目的である防火帯としての役割はあまり果たさなかったと言われている。

一部の地域では「爆弾が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」といった説が流れ、残された住宅の天井板だけを撤去することも行われた。都市空襲の場合、投下された焼夷弾が屋根を貫通した後に天井板で止まり発火する場合が多い。それを防ぐには有効であったと思われる。工業地帯等に投下された爆弾の重量は平均500kg~1tであり、薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。

建物疎開にあたっては、行政機関がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に撤去された。当時は「強制疎開」とよばれた。疎開対象の選定に当たっては地域の有力者などからの「政治的助言」が大きく影響し、被差別部落に対する偏見や、個人感情から対象に含められたと考えられるものも存在する。

建物疎開は終戦直前まで行われており、本土決戦に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全国で約61万戸の建物が除却された。また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に関しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した。建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。瓦礫の撤去に携わったのは主に国民学校高等科(12歳~14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵対象から除外されていた男性などであった。広島へ原爆が投下された当時も広島市内では既に数千人の学童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事していた。当日も彼らは既に作業を始めており、炸裂した原爆による被害を受けることとなった。