104人の大和魂No.48 ジョン万次郎  | 社長力検定「後継者育成塾」

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No.48 ジョン万次郎  

 

          

 

 ペリーは十日間滞在し、一発の砲撃も

せずに帰途についた。「開国」の結論を

伸ばしたものの、米国の情報が少なすぎ、

正直検討の仕様がなかった。果たして、

通商条約を結んで良いのか?手をこまね

いていると、蘭学者大槻磐渓が昌平黌

の林大学頭を通じて万次郎の登用を幕府

に進言した。阿部は、万次郎のことは長

崎奉行から「頗(すこぶ)る怜悧な人材」

という報告をすでに受けていた。

 万次郎が14歳の時に足摺岬で漂流し、

ウイリアム・ホィットフィ―ルド船長の捕

鯨船に救われた。その後、船長の好意によ

りアメリカで教育を受けさせてもらった。

姪と結婚し、家を継いで欲しいとまで言わ

れたが、「望郷」の念を抑えられず、帰国を

果たす。「望郷」とは、母親に会いたい思い

だった。

 「アドベンチャー号」により、琉球に入り、

薩摩の取り調べを受ける。ちょうど、薩摩

藩主は「開明派」島津斉彬だったのが幸い

した。好奇心の強い藩主は、万次郎から

アメリカ文明を吸収しようと

質問攻めにする。その後、長崎で「踏み絵」

などの取り調べを受けるとようやく土佐に返

された。漂流の11年後に土佐の土を踏み、

「教授館」の教師になって、後藤象二郎、

岩崎弥太郎などを育てた。

即刻土佐藩に万次郎の登城を命じている。

幕府が万次郎を重要人物として扱うことに

慌てた土佐藩は、身分を急遽「定小者」

から「徒士格」に引き上げて送り出した。

帰国後、万次郎は土佐藩から「士分」の

扱いを受けていたが、最下級の士分であった。

 万次郎は、一日千秋の思いで幕府からの

呼び出しを待っていた。万次郎は日本に

開国を迫るためにあえて命の危険を冒して

まで帰国した。やっとお役に立つことが

できると、胸躍る思いだった。

 嘉永6年(1853)8月30日、

万次郎は江戸城で阿部と面会する。

ペリーが日本を発ってから2か月半

が過ぎていた。万次郎は、阿部を

説得できる唯一の「律儀な」人物だった。

アメリカの目的は、侵略ではなく、

捕鯨漁を維持するための補給基地を

確保することだと説いた。水や食料

が補給でき、暴風雨などのアクシデ

ントに対し、避難できる場所が欲しい。

それなのに外国船に砲撃を加え、追い

払おうとする。だから米国は日本を野

蛮な国と見ている。米国は、漂流し

た者を助けることは当たり前だと考

えていると自身の体験を通して必死に

訴えた。米国の要求に従い、「開国」

しなければ、武力をもって日本を征服

してくるだろうと万次郎は阿部に説いた。

ペリーの帰国1か月後にロシア艦隊が

長崎に強引に入港し、通商を求めてきた。

阿部の危機意識が高まっていたところに、

万次郎は清国の二の舞になると警告を発し

たのである。十年間、アメリカ社会の中で

過ごしてきた万次郎の話には、一つ一つ実

感がこもっていた。