海防参与の徳川斉昭は、万次郎の帰国とペリー
来航は、タイミングが良すぎると訝った。
攘夷派にとっては、開国を勧める万次郎は
危険人物に映った。しかし、阿部は剣術
指南の団野源之進を警護につけ、命を守った。
翌年嘉永7年(1854)1月16日、
ペリーが再び9隻の艦隊を率いて浦賀沖に
現れた。条約を締結しなければ、武力行使
をするとばかりに強硬姿勢であった。
日本は、日米和親条約を締結。幕府は言葉
に拘り、「通商」ではなく、「和親」とした。
「商い」に抵抗したのである。正弘は、オランダ、
中国以外の国に門戸を開放した。イギリス、ロシア
とも相次いで国交を開き、開国政策に舵を切る。
通常、戦争に負け賠償金や領土割譲後に条約が
締結される。アジア初の「無血」条約を結んだ
阿倍の外交能力は相当高かったと言える。
万次郎は、「恩のあるアメリカに有利な工作
をする可能性がある」という斉昭の意見が通り、
条約訂正の場面に同席させて貰えなかった。
だが、日本を開国させる使命を果たすことができた。
14年前に難破し、日本へ戻ることができなかったのは、
「鎖国」のためだった。皮肉なことに、そのお蔭で
外国から日本が孤立していることが分かった。
日本のために「漂流=留学」、そして帰国し、開
国に貢献することができた。万次郎が著した、
漂流記「漂巽紀略」を坂本龍馬が読み、
「攘夷」から「開国」に宗旨変したほど
インパクトがあった。明治新政府「薩長
土肥」の一角に加わることができたのは、
万次郎の影響が大きい。
「日米和親条約」によって、日本はアメリ
カに対し、下田、箱館の2港を開港し、薪水、
食料、石炭等を供給、難破船、遭難乗組員の救
助を認めた。万次郎は、使命を果たすことが
できたのである。
米国人が日本で犯罪をしても裁けない
「治外法権」は不利な条約であった。だが関
税は20%と英国、フランス等の先進国と
同等とされ、一流国扱いを受けた。このため、
幕府の収入は、2倍以上に増えた。
しかし、「開国」によって日本の「金銀」
が海外に持ち去られた。
アメリカ総領事ハリスは、悪質だった。
「ドル銀貨が1分銀3枚と同じ重さだから
等価である」と屁理屈をつけて、自分のドル
銀貨と換えた。ハリスは、まんまと大金持ち
になって帰国。英国やロシアも甘い汁を吸お
うと群がった。安政6年(1859)だけ
でも数百万両を超えたのではないか。アーブ
スノット(経済学者)は、「日本の通貨は世
界に例がないほど、外国勢力によって大混乱に
陥った」と帰国後に英国大蔵省に報告書を
提出したほどであった。(NHK・ETV)歴史に
好奇心・テキスト・平成18年・2006年8、
9月号)開国の代償は大きく、慶長小判を根こそ
ぎ消失させることになる。従って、「徳川埋蔵金」
を目当てに日本中のどこを採掘しても出て
くるはずがない。