104人の大和魂  No.47 阿部正弘  ペリー来航 | 社長力検定「後継者育成塾」

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No.47 阿部正弘  ペリー来航

 

 

 弘化2年(1845)、阿部正弘は25歳

で老中首座になると「海岸防禦御用掛

(かいがんぼうぎょごようがかり)」を

設置して外交、国防問題を調査させた。

すでに隣国清が英国に戦争で敗れ、

中国が蹂躙され過酷な状況は伝わっていた。

正弘は、首座になる前年弘化元年(1844)

にオランダ国王からの「開国勧告」を老中

として拒否していた。文化5年(1808)

にフエートン号事件、天保8年(1837)

モリソン号と英米の軍事力に歯が立たない

ことを分かっていながら、具体的な戦力

増強策を怠っていた。

 首座就任の2年目の弘化3年(1846)、

アメリカ東インド艦隊司令官ジェ―ムス・

ビッドルがアメリカ大統領の国書を携えて浦賀

(神奈川県)に来航して、通商を求めた。

正弘は、貿易国を広げる意志はないと又もや

拒絶する。当時の武士は、儒教の影響により

商いを賤しいものと考えていた。従って、

貿易によって幕府財政を潤わせようとは夢にも

思わない。軍人のビッドルを「商人」と思い、

突き飛ばした無礼者がいたほど、商業行為を

見下していた。

 7年後、アメリカ大統領の親書を携えて、

米国東インド艦隊司令長官ペリーが来航した。

正弘は、事前にペリーが琉球を訪れることを

掴んでいた。琉球の外交官にアメリカが日本を

征服する意志があるか否かを確認するように

命じている。琉球からの報告は、「アメリカは、

航海補給地を求めている。征服する意志はない」

ということであった。日本中が「ペリー来航」に

狼狽したように教科書に記述されているが、

日本のトップは泰然としていた。本当に驚い
たのは来訪ではなく、黒船そのものだった。

蒸気船なので、エンジンで動く。サイズが大きく、

鉄張りだ。帆船と異なり、大砲のような重い荷物を

運べる。何と黒船の砲台から射撃が可能なのだ。

海に囲まれていることが、最大級に危険な環境に

なってしまった。黒船による来航は、完全な脅しだ。

アメリカは、過去2回とも低姿勢で日本に臨み、

突っぱねられたことから3度目は高飛車に出た。

それが功を奏し、日本は開国の扉を開くことになった。 

 

ぶらかし 作戦

 正弘は、アメリカとの通商は「考えてから返答する」

と対応している。外交顧問水戸斉昭に、「ぶらかし戦術」

として、あいまいな態度で急場をしのいだと説明。

アメリカの武力を計りがたく、「打ち払う」ことに

迷いがあったと思われる。正弘は、未曽有の国難を

乗り切るため、朝廷を始め、外様大名を含む諸大名、

庶民にまで意見を求めた。幕府(政府)が国民に意見を

求めるなど、前代未聞。意見書は、719通に上った。

「言路洞開(げんろとうかい)」と言われた政策は、

幕府の権威を一気に弱めることになる。国家運営に

諸藩に介入する口実を与えたのである。ペリー来航

後15年で幕府は、幕を閉じる、「終わりの始まり」

となった。当該政策は、日本に「世論」という国民の

意見を集約させる文化を作り出した。身分社会を崩壊

させる爆弾になったのである。この時、海防に関する

意見書を提出した、勝海舟が幕府に見出された。

 安政4年(1857)、阿部正弘は老中職のまま、

帰らぬ人となる。幕末を必死に支えた人材は、

肝臓病を患い、この世を去る。享年38.