孝明天皇を毒殺 孝明天皇の医師団15名の
一人伊良子光順が、「御所御疱瘡ノ節 并ニ御
凶事勤仕日記慶応二寅年-卯年中 光順」
として病状観察日 記を残している。曽孫の
医師光孝氏が、昭和50年から52年にか けて
「天脈拝診-孝明天皇拝診日記」を
『滋賀県医師会報』に連載。 毒殺の証拠
だと話題になった日記には、次のように
記載されていた。
(要約) <慶応2年・1866> 12月12日 発熱
執匙(主治医)高階経由拝察調薬
13日 発熱続く 食欲無
14日 天然痘可能性あり 下剤投与便通無
15日 高熱続く 下剤投与便通あり 196 104人の大和魂
16日 高熱
17日 医師団15名 天然痘と確定診断 高階薬処方
18日 解熱処方
19日 食欲回復(粥を少し食す)便通あり
20日 食欲あり 安眠
21日 熟睡 経過順調
22日 手足痺れ引く 平熱
23日 団子、粥、大根等食す
御東司(厠に立つ)
24日 夜突然発熱 嘔吐繰り返す
25日 危篤(意識不明)
九穴(両眼、両耳、鼻、口等)出血
崩御 記載のように19日に驚異的な回復を見せ、
22日、侍医団が「御 順症」と山場を越え、
回復したとある。
23日、献上菓子を水でといで1椀,
を水でとき半椀、
団子 を7個、葛湯1椀、ほもじ(干し飯)
2椀を口にしている。
「おと うならせられ」と自身で厠にいった
ことが分かる。
24日夜、突如発熱、急変した。
「御乾嘔(からえずき)」
と吐く 物がないのに、「おえー」
となる症状が強くなったと記す。
当日夕 飯時に斑猫毒
(はんびょうどく)を飲まされた
と考えられる。
(ヒ 素は出血しない)
医師団15名が交代で張り付いて
いたため、医師が毒を盛ったと
は考えづらい。「四奸二嬪」として、
事件当時岩倉具視と妹
堀河紀 子は追放処分を受けていたので、
アリバイが成立している。だが、
現場不在であっても犯行は可能だ。
薬は、下級女官、命婦、高級女 官を
経て天皇の口に入る。岩倉は、高級女官
から孝明天皇情報を逐 一受け、回復した
24日夕飯時に毒を盛らせたのではないか。
直木 作家中村彰彦氏は、高級女官・
中山績子を犯人だと断定している。
(孝 明天皇毒殺説の真相に迫る)