104人の大和魂 No.53 坂本龍馬 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 薩長同盟 文久3年(1863)1月16日、勝海舟は

前土佐藩主山内容堂 と会い、坂本龍馬の「脱藩」の許し

を得た。この後、龍馬は薩摩と の関係を深めていく。

長州藩士は、龍馬を薩摩藩士と認識していた。 

木戸の右腕と言われた広澤真臣が藩士山田右門に

対し「薩州(薩摩 藩)の坂本良馬」として動静を

述べている。又、藩主毛利敬親も「薩 州坂本良馬の

窮地を救った(池田屋事件)」として三吉慎三に褒美 

として刀を与えている。長州は、龍馬ではなく、

良馬」と認識し ていた。長州の桂が龍馬に同盟内

容の文書に裏書(サイン)を求め た理由は、龍馬が

薩摩藩士として認められていたからだ。西郷は、 

長州との交渉役として龍馬を「薩摩藩士」に仕立てた

と考えられる。 もちろん家老小松帯刀の同意を得てい

たはずだ。 192 104人の大和魂 「龍馬手帳」

(慶応元年・1865年4月から慶応2年・66年 

暮れまでに書かれた龍馬の日記帳)によれば、

「三両二歩也 坂本 龍馬 (以下6名氏名略)

右は当月何月分慥(たし)かに頂戴仕候 

 以上 寅三日」

と薩摩からの給付額を記録している。「三両二歩」は、

土佐藩の下級留学生並みの待遇である。亀山社中全員

が同額の給付 額であった。龍馬が「(亀山)社中」

を薩摩の一機関と認識し、活 動していたことが分かる

貴重な一次資料だ。社中は、慶応2年(1 866)

4月以降は「海援隊」になり、土佐藩から俸禄を

得ている。 薩長同盟すなわち薩摩と長州の軍事同盟

を結ばせることを最初に 考えたのは、中岡慎太郎で

ある。元治元年(1864)12月、中 岡は福岡藩士

早川勇の紹介で西郷隆盛に接触。三条実美卿付土方楠 

左衛門とともに西郷へ上京を働きかけている。慶応元年

(1865) には、京都に4度も足を運び、同盟の仲介

を行っている。表は龍馬、 裏で中岡が両藩の同盟に動いた。

長州は、「撫育局」で新田開発や 新規事業を推進し、実高が

71万石。薩摩は黒砂糖の専売制などで 利益を上げ、

実高87万石。両藩ともに経済力、軍事力に秀でてい た

ことが、反幕の原動力になっていた。 慶応2年(1866)

1月8日、小松帯刀の京都屋敷・茶室「有 待庵」にて、

桂と西郷の会談が行われた。だが、話は容易にまとま 

らなかった。当茶室は、謀議にしばしば使われ、

岩倉は頭巾をかぶ り、足を運んでいる。