104人の大和魂 No.52 高杉晋作 1 | 社長力検定「後継者育成塾」

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下関戦争 

 高杉晋作が「倒幕」の根拠にしたのは、

師吉田松陰の思想である。 松陰は、水戸

学に心酔し、天皇を国の中心に据えること

が真の「忠義」 だと考えた。「至誠に通じ

ざるはなし」と真心を尽くすことを第一

 にした。高杉らに、「吾輩がいなければ、

幕府を弾劾するものは千 年たっても出なか

ったろう」と書簡を送っている。「かくすれ

ば か くなるものと知りながら やむにやまれぬ

 大和魂」と松陰は胸の内 を詠んだ。高杉の

身体には、いつも松陰と同じく、熱き大和魂が

流 れていた。 高杉は、文久2年(1862)

5月、幕府使節随行員として、上 海に渡った。

そこで見たものは、「支那(中国)人が外国人

にこき 使われ、英仏の属国にされた」状況だった。

老朽化した橋を英国人 が架けなおし、清国人は通行

料を払わされていた。英国は島国で、 海軍力を

増強し植民地を増やしている。南北戦争中のアメ

リカには 身分制度がないことなどを知る。

やがて日本にも英米が侵出し、支 那の二の舞に

なると高杉は直感した。 文久3年(1863)5月

10日、長州藩は下関海峡を通過する 米商船「ペンブ

ローク号」を皮切りに仏、蘭の艦船を砲撃。すると、 

6月1日に米国、5日には仏、蘭の報復攻撃があった。

イギリスは 長州に対して、損害賠償請求を行った。

長州は、「幕府の命令に従っ た」として幕府に請求させた。

 藩はすぐに高杉を山口の藩庁に呼び出し、下関海峡の対策

を命じ た。高杉は、翌6日夜遅く豪商白石家を訪れている。

奇兵隊日記の 7日付には、「奇兵隊入15人あり」」と

記され、白石正一郎日記の 8日付には「高杉当家にて

奇兵隊相成、正一郎、廉作・・・入隊」 と奇兵隊結成に

白石が弟とともに入隊したことが記されている。

高 杉25歳、白石52歳という親子ほどの年齢差、

又200石の武士 と商人という身分差を乗り越え、

信頼感で結ばれた様子が窺える。 同年6月、

高杉晋作は「奇兵隊」を創設。奇を以って虚を

突いて 敵を制するということからネーミングされ

ている。高杉は、師吉田 松陰の「草莽崛起

(そうもうくっき)」を標榜し、身分を問わず、 

志の高さを求めた。朝市隊(商人)、遊撃隊(漁師)、

豪遊隊(農民) と次々に結成、「諸隊」と呼んだ。

最盛時には数千人規模となり、 長州正規軍をも

上回る軍隊になった。 幕末期に武士階級以外の者

たちが、軍隊を結成したのは長州だけ である。

基礎学力がなければ、抽象的な「国家」意識を

持つことは できない。この地域は、三方を海に

囲まれ、頻繁に船が通る。緊張 感が常にあって、

漢学が盛んであった。 江戸時代に今で言うGDP

調査(防長風土注進案)ができたのは、 長州藩だ

けである。庄屋に命じて村単位で、家の牛の数、

農具代、 投入した労力等を調査している。産出を得る

ためにどのくらいの費 用をかけたか?経済学分析まで

行っている。長州人のレベルの高さ を示すものと言える。

 騎兵隊は砲術だけでなく、孟子などの漢書などの教養に

も力を入 れ、誰でも命令書が書けるようにリーダー教育

を行った。隊長が倒 れてもすぐに代わりの者が指揮を執れ

るように訓練していく。1分 間に180歩進む歩行訓練

や50kmを8時間で走破するなど文武 双方を鍛え、

合格に達しない場合は外出禁止処分とした。長州藩

か ら俸給、武器が支給され藩の戦力として期待された。