1810年1月30日・「大日本史」江戸幕府へ献上される | 社長力検定「後継者育成塾」

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大日本史

大日本史』(だいにほんし)は、日本歴史書

江戸時代御三家 のひとつである水戸徳川家

当主徳川光圀 によって開始され、光圀死後も

戸藩の事業として継続し、明治 時代に完成した。

テレビでお馴染みの「水戸黄門」さまの業績として

高く評価されている。

神武天皇 から後小松天皇 まで(厳密には南北朝

統一された1392年元中 9年/明徳 3年)までを区切り

とする)百代の帝王治世を扱う。

紀伝体 の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・

皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に

配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られ

る)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。

携わった学者たちは水戸学派 と呼ばれた。

『大日本史』は光圀死後の1715年(正徳 5年)、藩主

徳川綱條 による命名で、同時代には『本朝史記』や

『国史』『倭史』と呼ばれている。質の高い漢文 体で

書かれ、記事には出典を明らかにし、考証にも気を

配っている。


1672年、編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を

小石川本邸へ移転し、「彰考館 」と改めた。史館員も増

員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、特に南朝関係

の史料を広く収集している。また、光圀は日本へ亡命した

朝遺臣である朱舜水 を招聘し、彼らより歴史の正統性

の意味を諭された。特に、南北朝時代の南朝方武将楠木

正成の忠誠心を朱舜水に示唆された。そもそも日本の正

史にとって、北朝と南朝のどちらをとるのかは重大な選択

だった。北畠親房 の『神皇正統記 』の影響を受けて

おり、林羅山 父子が執筆していた歴史書『 朝通鑑』の草

稿に、大和民族日本人 )を「太伯 の末裔

である」という記述を発見して憤慨したという。

主な特徴は、次の3つである。

  1. 神功皇后 を皇后伝に列した。
  2. 大友皇子 を帝紀に列した。
  3. 南朝 正統論を唱えた。

哲学者西田幾多郎 が「明治大正の間、歴史の名に値するほどの

著述」は「水戸の大日本史があるだけである」として高く評価している。


南朝、北朝の正当性を問う論議があるが、天皇家の存在自体が


最も重大なことなので、論争の題材にする必要性はない。


世界一の古い国家の象徴として君臨する役割は、途轍もなく


偉大だ。



Q.「大日本史」は、完成まで何年かかったか?


A.1657年(明暦3年)光圀が史局を開発してから

  数えて249年(満248年)の歳月を要した。

 計算式例

 224冊×1年=224年