こんにちは。

初めに「何故ルカの書物が罠か」という短編の動画を作成しましたので、お知らせします。当該動画は、こちら(BitChute)です。今回は「違和感を放置しない生き方」と題して書き進めていきます。

 

 

 

・聖書から立証された真実「パウロは偽使徒で反キリスト」

 今回この動画を作った大きな目的の一つは、パウロが偽使徒であるという極めて重要な真実を改めて少しでも多くの人に伝えたいと考えたからです。二千二十一年八月に、ミカエル氏によって、アメブロの真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」でパウロが偽使徒であることが聖書から立証され、二千二十一年九月から二千二十二年三月の間に「偽使徒パウロの反キリスト教義」と題した七回に及ぶ連載で、パウロが反キリストであることがこれも聖書から立証されました。これらの記事を素直な心で読み、御自身でも聖書から著者が書いたことに間違いが無いかどうか調べた人なら、パウロが偽使徒で反キリストであることに気付くことが出来たはずです。言うまでもありませんが、聖書から立証されたとは、ミカエル氏がこれらのすべての記事で述べられていることが彼の主観では無く、聖書に基づき述べられ、神の御言葉によってパウロが偽使徒で反キリストであると証明されたということです。この事が意味することは、パウロが偽使徒で反キリストであるということが真実であるという事です。これは聖書(偽使徒パウロの書簡及びその一派であるルカの書物は除く ※以後の「聖書」という言葉のすべてに適用します。)を神の御言葉であると信じる人ならば、否定出来ないはずです。何故なら神の御言葉は真理で矛盾が無いからで、神の御言葉からパウロは偽使徒で反キリストであると証明されたからです。もし聖書からパウロが偽使徒で反キリストであることに反論が出来る余地があるならば、それらの事は真理ではないですが、反論出来ない以上それらは真理なのです。実際、わしも聖書から反論できる余地はないか調べたり考察したことがありますが、何一つ反論等することが出来ませんでした。それ故に、わしはパウロが偽使徒で反キリストである事実を微力ではありますが、確信を持って言い広めているところです。神の御言葉から立証された以上これらの事実を言い広めることは神の御意志に適うことであるからです。

 また、長年、わしはパウロの書簡について疑念を持ってはいましたが、彼が偽使徒で反キリストであるとまでは見抜くことが出来ませんでした。しかし、彼の書簡を読む際には、言いようのない違和感を抱くことが多かったです。それ故、ミカエル氏が「パウロは偽使徒」や「偽使徒パウロの反キリスト教義」を発表され、その記事を読んだ時には目から鱗が落ちました。パウロ書簡を読んでいる時に感じていた「何か変だな、何か少し違うような」という違和感の正体が分かり、膝を打ったのでした。そもそもパウロは聖書に書かれた使徒の要件を満たしていない故に使徒ではあり得ず、主イエスの御言葉に逆らうことを多く述べた反キリストであったことが聖書を基に論じられていたからでした。今回はこれらを深堀することはしませんが、まだ読んだことのない人は読んでみることを強くお勧めします。

 先述したように、わしはパウロの書簡を読んでいる時には、「何か変だ」とか「言っていることが矛盾しているのでは」等の違和感を抱くことが多々ありました。しかし、その抱いた違和感をずっと放置して、「いや、何かの間違いだ。わしの読解力が無いから誤解しているのだ。」とか「パウロはわしの理解を超えたもっと深いことを述べているのだろう。」等と安易に考え、その違和感と真剣に向き合うこと(聖書を調べること)をしてきませんでした。それは今考えると非常に恐ろしいことだったと思います。何故ならば、嘘を信じ、その嘘を言い広めていたことになるからです。神の律法には、偽りの噂を流してはならんし、罪人(犯罪者)にあんたの手を貸して悪の証人になってもならん。(真の聖書福音と預言「日本人の問題点一」ミカエル氏訳)という掟があり、嘘と知らずともその嘘を言い広めても、その人が嘘をついていることには変わらず、罪を犯すことになるのです。パウロが偽使徒で反キリストであるということが聖書で立証された以上、その事実と真剣に向き合わずそのままやり過ごすならば、すべて嘘を言う者は第二の死である永遠の滅びに至ります。(黙示録二十一章八節 参照)パウロが偽使徒であると聖書から立証されたにも拘らず、聖書とミカエル氏の記事から調べようとせず、自分が信じている教義(律法廃止論等)が崩れ去るのが受け入れられないので、事実から目を背けたり、ただ感情的に、「パウロは偽使徒だ。」と言い広める人を罵る人は、神より自分を愛する人(聖書は神の御言葉であるので、神の御言葉よりも自分の意思を優先していることからも明白)なので神に逆らう反キリストであり、どうすることも出来ません。しかし、もし僅かでも心に違和感があるなら、そのまま放置せず、その違和感に向き合うことを強くお勧めします。 

 

「パウロは使徒である」という嘘を言い広める人は、盲人の道案内をする盲人(マタイによる福音書十五章十四節等 参照)です。この御言葉は、主イエスがファリサイ派の人々に向けて発せられた言葉でした。「我はファリサイ派だ。ファリサイ派の子だ。」(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義七」使徒言行録二十三章六節 ミカエル氏訳)とは、最高法院の場でパウロが発した言葉ですが、これらの言葉からも明白なように、ファリサイ派であるパウロは盲人なのであり、その盲人に道案内を受ける人たちも盲人なのです。これは主イエスが述べられたことであり、この言葉に逆らう人は反キリストです。嘘をつく人とその嘘に騙されて言い広める人は共犯です。先に引用した偽りの噂を流すことを禁じる神の掟をすべての人が守るならば、この世はどれだけ生きやすかったのだろうかと思います。また、この神の掟を多くの人が守っていたなら、先の大戦も無かったのかもしれません。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。(中略)

少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

  戦争責任者の問題 伊丹 万作

 

 上記引用文からも明らかですが、嘘をつく人とその嘘に騙されて言い広める人が共犯であることがよく分かります。「今まで起こった世界大戦もすべて民間中央銀行を設立や経営をしてる銀行家たちの意向であった。それ以前の日本で起こった日清戦争や日露戦争も同じであった。すべて、銀行家であった英国ロスチャイルド家の意向でしかあらへん。」(キリスト道 「戦争は銀行家の企みで政府間の衝突はヤラセ。」より引用)とあるように、戦争は一部の支配層の策略によって引き起こされているのは間違いありません。よって、大多数の一般大衆がその策略に騙されなければ、戦争など起きようがありません。そして、いつの時代でも実際に戦争で殺し合いをするのは大多数の一般大衆だけです。騙された一般大衆が相互間でその偽りの噂を言い広めることによって、偽りの世論が形成され、それが同調圧力をも生み出して、戦争を引き起こすことになり、自らの首を絞めることになるのです。偽りの噂に騙されるのは、世の権威である政府や報道機関や学校等が言うことはすべて正しいと考えて、自分の頭で考えることを一切せず、疑わずに信じて、従うからです。そのような態度であれば、世の権威が「悪」であれば(実際「悪」ですが)そのまま「悪」を受け入れることになります。また、そもそも悪を見抜くことが出来ない、見抜こうともしない人は、自身が悪人だから悪いことに対しての違和感が生じないので、悪を受け入れているという実感もないのかもしれません。だから何の疑問も持たず悪を受けいれて、偽りの噂を言い広めているとも言えます。これは先に述べた「パウロが使徒」であると世に広まったのと同じ構図です。この嘘が広まった事の発端は、パウロ自身が使徒であると嘘をついたことから始まり、その後、パウロ教信者である異邦人であるローマ人が権威付けのために聖書の聖典とそれ以外の外典や偽典という区分を思い付き実行しました。そして、実に新約聖書に含まれる二十七の書の内の十三もの書をパウロの書いた書簡を採用してパウロとその書簡の権威付けを行い、世の中に広められました。(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義五」を参照)その後の経緯は、現在の世の諸教会を見れば明らかなように、世界中でパウロとその書簡の権威付けに成功し、彼は使徒であると信じられ、パウロの教義に基づいた偽福音が言い広められて信じられています。その策略に騙されたカトリック、正教会、プロテスタント等の世の諸教会の信徒は、自分で聖書を通読せず、聖書を確認することなく、学んだり研究することもせず、世の諸教会という世の権威を盲信して彼らが言うことを信じ切っており、まんまとその策略にはまっています。先述したように、騙された一般大衆が相互間でその偽りの噂を言い広めることによって、偽りの世論が形成され、それが同調圧力をも生み出し、嘘を信じる人が増え続け、同調圧力によって万が一それが嘘だと気付いたとしても多数派に莫迦にされたくないとか仲間外れにあいたくない等の恐れから声を上げることが出来ない人もいるのでしょう。しかし、それは神よりも自分を愛する人です。神を愛するとは、神の掟を守ること(ヨハネの手紙一 五章三節 参照)であると使徒ヨハネが述べている通り、嘘をついてはならない(レビ記十九章十一節 参照)という神の掟を守らないからです。わが身可愛さという自己愛の故に同調圧力に負けて、神の掟を破るなら反キリストであるのです。

たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。

  (戦争責任者の問題 伊丹 万作

 

 上記引用文は戦時中の話です。戦時中はすべての男子は、ゲートルという脚絆を着用することが推奨されていたようですが、上記の引用文にあるとおり、この脚絆を巻かなければ外へ出れないような風潮を作ったのは、政府でも官庁でもなく、国民自身だったと書いてあり、また、戦闘帽の着用も国民自身が同調圧力によって半強制化させたことが分かります。二千二十年から始まったコロナ偽騒動においても日本では当該引用文と同じような戦時中の過ちを繰り返しました。同調圧力によって、ワクチン接種やマスク着用をしなければ外出しづらいという風潮を作ったのは、政府でも官庁でもなく国民自身でした。任意であるはずのワクチン接種やマスク着用を半強制化させたのは、国民自身だったのです。いつも日本人は自分で自分の首を絞めているのです。かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。太陽の下、新しいことは何もあらへん。」(真の聖書福音と預言 「二種類の基礎」 コヘレトの言葉一章九節 ミカエル氏訳)という聖書の御言葉のとおり、人間は太古から何度も何度も同じ過ちを繰り返しています。「新型コロナウイルス」というものはこの世には存在せず、未だ存在が証明されていません。PCR検査や抗原検査は、遺伝子検査であって、感染症検査ではないので感染症の診断には使えません。故に、「新型コロナウイルス」のワクチンなど作れません。また、医学的にも科学的にもマスクは病気の予防にまったく効果がなく、マスクは有害無益です。これらのことは事実なのです。こちらの(キリスト道本拠)に分かりやすく説明されているので読んだことが無い人は読んでみてください。「新型コロナウイルス」は存在する、ワクチンが人間を感染症から守る、マスクは病気の予防効果がある等の偽りの噂を流すことは、神の掟に反することです。神の掟に反する行いを進んでするから、神の呪いが我らに降りかかるのです。一日も早く聖書を読んで、本物の神に立ち返り、神の律法、掟、戒め(十戒だけでは不十分)を主イエス・キリストへの信仰故に守るべきです。

 

・「類は友を呼ぶ」キリスト者と反キリストは相容れない

 今回の動画を作った目的をもう一つ挙げるならば、偽使徒パウロが反キリストであると聖書から立証された現在において、その一派であったルカにも疑惑の目を向けるのは当然のことであることを再度周知したかったというのも大きな理由の一つです。

コロサイ四章十四節に医者ルカの名が挙がり、テモテ二 四章十一節とフィレモン二十四節でも協力者としてルカの名が挙がってることから、ルカがいつもパウロと共に行動してたんは明らかや。ルカとパウロはかなり深い仲で結託してたんは間違い無い。使徒言行録でもパウロの活躍を多く書き、肝心の十二使徒のことについては記述がまったく無いとは言わへんが、異様に少ないこともおかしい。

   真の聖書福音と預言 偽使徒パウロの反キリスト教義四

 

 上記引用文にあるとおり、ルカはいつもパウロと行動を共にしており、深い仲で結託していたことは間違いありません。偽使徒であり反キリストであるパウロと共におる人たちは、パウロと同類ということです。前回の記事「ともし火には影が無い」でも引用した文章ですが、再度引用します。

「類は友を呼ぶ」ということわざは真実です。聖書にも「悪事をはたらく者は悪の唇に耳を傾け、偽る者は滅亡の舌に耳を向ける。」(箴言17:4)とあるとおり、悪人は悪人の言うことに聞き従い、徒党を組むのです。だから、悪人は正しい人の言うことに耳を傾けませんし、主イエスの教えにも異議を唱えたり、曲解したりして素直に従わないのです。にわかクリスチャンたちが偽預言者、偽教師、偽使徒らに耳を傾けることも上記聖句のとおりです。

  (真の聖書福音と預言「差別と侍の本義について」)

 

悪人は悪人の言うことに聞き従い、徒党を組み、正しい人の言葉には聞き従わず、正しい人を嫌悪したり、罵って反抗したり、莫迦にして嘲ったりします。しかし、正しい人も悪人と共に居ることを避けます。我は悪を行う者らの集いを憎み、悪しき者らと共に座りません。(詩編二十六編五節 参照)と聖書に書いてあるように、正しい人(主イエスへの信仰の故に、神の律法、掟、戒め(十戒だけでは不十分)を熱心に守りそれを喜びとする人)は、悪を行う者(無神論者、パウロ教信者等の神の律法、掟、戒めを無視して、守らず、自分勝手に放縦に生きる人等)の罪に加担することやその罪深い言動を嫌悪するために共に居ることを避けるからです。上記引用文に書いてあるように、わしも、つくづく「類は友を呼ぶ」という言葉は真実だなと思います。正しい人は正しい人と悪人は悪人としか徒党を組むことが出来ないのです。よって、キリスト者はキリスト者で集まり、反キリストは反キリストで集まるのです。回心後のパウロは、十二使徒や主の弟ヤコブらの真のキリスト者が集うエルサレム教会と共に歩みませんでした。もしパウロが真のキリスト者であれば、彼らを訪ねて最期まで信仰を共にしたことでしょうが、実際は共に歩みませんでした。真のキリスト者が集うエルサレム教会と共に歩まなかったというパウロの行いは、彼が聖書から偽使徒であり反キリストであると立証されたことと矛盾しません。キリスト者と反キリストは共に居ることが出来ないからです。先述したように、ルカはいつもパウロと行動を共にしており、深い仲であったことは事実です。よって、ルカの言葉を盲信することは、大変危険なのです。彼が真のキリスト者なら、反キリストと共に居ることなどあり得ないからです。今回の短編動画を作成したもう一つの大きな理由がここにあります。しかし、ルカが書いたとされる「ルカによる福音書」と「使徒言行録」の両著書は、主イエスの御言葉や十二使徒たちの言葉等を知るのに非常に有益な書物であることは間違いなく、これらの書物に書かれたすべての言葉が罠であり信用に値しないと言っているのではないことにご注意ください。しかし、聖書研究を続ける内に、ルカが書いたとされる書物には、明らかに真理への到達に影響を与えるような言葉が目を凝らさなければ分からない程度に散りばめられていることに気付かされました。今回は深堀しませんが、過去に当ブログで、「偽使徒パウロ一派 ルカの書物の罠」「ルカによる福音書の考察と聖書通読について」と題して考察していますので、ご高覧いただけると幸甚です。

 

・違和感は暴走を止めるための制動装置

 現在、偽使徒パウロの教義に基づいた律法廃止論等を教える世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント等)に通っている人で、教会に通いながらも心の中で、何かしっくりしない、馴染めない、居心地が悪い等の違和感を持っている人はいないでしょうか。もし少しでもそう思うなら、その違和感を無視して生きることは止めるべきです。それは人間にある良心に逆らっている可能性があるからです。わしが生きてきて(不信仰であった時も含め)思うことは、心の中でふっと浮かぶ「何かが違う」という感覚を無視して生きていると結果的に悪いことが自分の身に降りかかることが多かったということです。それ故に、この感覚的なふわっとした得体のしれない「違和感」というものを無視して生きることは賢明ではないと考えます。違和感とは暴走しようとする人間の制動装置ではないかと思うのです。旧約聖書の民数記二十二章には、モアブの王バラクとバラムという預言者について書いてあります。詳細は当該箇所を読んでいただきたいですが、バラムがモアブに向かう際には、いつも彼が乗っているろばで出発しました。しかし、その途中で彼のろばは道を逸れたり、石垣にすり寄ったりし、最後にはとうとう道に伏せてしまいました。その度にバラムは怒り、ろばを杖で打ちました。ろばがそのような行動を取ったのは、主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっていたからで、ろばにはその姿が見えていましたが、バラムには見えていませんでした。ろばが道に伏せてしまった時、主なる神がろばの口を開かれ人間の言葉を与えられたので、バラムとろばは会話を始めます。ろばはバラムに言った。「我はあなたのろばですし、あなたは今日までずっと我に乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。」彼は言った。「いや、無かった。」(民数記二十二章三十節 参照)そして、この会話の後に、主なる神はバラムの目を開かれたので、バラムは主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを確認し、道にひれ伏し、主の御使いと会話をします。そして、その会話の最後にバラムは「我の間違いでした。あなたが我が行く手に立ちふさがっておられるのを我は知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、我は引き返します。」(民数記二十二章三十四節 参照)この出来事を使徒ペトロも「バラムは不義のもうけを好み、 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。」(ペトロの手紙二 二章十五節~十六節 参照)と語っています。この出来事から違和感を無視し続けることは、命を失う危険性があることが分かります。バラムは通常なら抱くであろう違和感が分からなくなるほど暴走していましたが、その暴走を止めるために三度もろばはいつもは決してしない行動を取ったのです。その裏では、主なる神が御使いに抜き身の剣を持たせ、バラムを制止させようとしたことが分かります。しかし、バラムはモアブの王であるバラクから受けるだろう不義の報酬のことで頭がいっぱいだったのでしょう。それ故に、自分のろばがいつもは決してしないことを三度しても違和感を抱くことさえ出来ず、自分の欲を満たすため、ろばを先に進めるために三度も杖で打ったのでした。この聖書箇所から学べることは、人間が抱く違和感を無視することは、神の御意志に背く可能性があるということです。人間に違和感を抱かせるとは、そこで一旦立ち止まらせて、冷静に理知的に考えさせ、道を誤らせないようにさせるという神の御意志があるのかもしれません。よって、話を戻しますが、世の諸教会に通っている人で、その場所に居ることに違和感を抱いている人は、今一度聖書に立ち返り、御自身で複数回通読してみることをお勧めします。

 

 余談ですが、バラムは「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、我が神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。」(民数記二十二章十八節 参照)と自身の金銭欲を否定し、主なる神への忠誠を口にしていますが、彼の発した他の言葉からそれが嘘だと分かります。バラムは、バラクの使いの者たちに、「主が我に告げられるとおりに、あなたたちに伝えよう。」 と話して、その後、主からバラムが受けた言葉は、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」 という御言葉でした。しかし、バラムがバラクの使いの者たちに告げた言葉は、「自分の国に帰りなさい。主は、我があなたたちと一緒に行くことをお許しになりません。」 という言葉でした。バラムは主が自分に告げられたとおりに使いの者たちには告げると語ったにも拘らず、主の言葉のとおりに告げることはしませんでした。主は、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」 と仰っているにも拘らず、一番重要な言葉である「この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」 という言葉を使いの者たちに伝えることはしませんでした。バラムはバラクが彼に望んでいた「イスラエルの民を呪うこと」は出来ないこと、何故ならば、「イスラエルの民は主に祝福されているからだ。」ということを明言すべきでしたが、その言葉を使いの者たちに言ってしまえば、バラクとの関係は途切れてしまい、金銀を受け取ることが完全に叶わなくなると思ったので、「主は、我があなたたちと一緒に行くことをお許しになりません。とだけしか伝えなかったのではないかと推測します。どちらにしても、バラムは「主が自分に告げられたとおりに、あなたたちに伝える」と言い切りましたので、嘘をついたのは間違いありません。先にも述べたように、バラムは主なる神への忠誠を口では語った訳ですが、行いで示すことが出来ませんでした。心が金銭欲に支配され、嘘をついてはならないという神の掟を破り、暴走を止めるための制動装置ともいえる違和感が働かず、肉の欲により暴走したからです。やはり、肉の欲は非常に厄介なもので、人は肉の欲を満たすことしか考えなくなれば、既に理性を失っているのであり、理性を失えば獣のように本能に任せて暴走してしまうことが分かります。人間であり理性が備わっているはずのバラムは、動物であり理性が無いろばに常軌を逸した行いを止められたのは、人間として非常に恥ずかしいことで、わし自身もこのような行いが無いように生きていかなければいけないと思わされました。

 

・違和感には惑わしもある。神の御言葉によって正しい判断をする。

 こちらの記事( [LGBT]性に違和感を感じるあなたへ。苦しいと悩む必要はないから大丈夫 LIBERTY OF ACTION)では、LGBTを心の性と生物学的な性が一致せず、違和感を抱く人と定義しています。しかし、LGBT等の性的倒錯者が抱く違和感は自身の性に対する違和感ではなく、実は神の御言葉や神の律法に反した行いをしているが故の違和感であるのだろうとわしは考えます。これは神を信じているか信じていないかを問わず、人間は神の御言葉や神の律法に背くことをすれば、良心の呵責に苛まれるだろうからです。勿論、完全に良心を捨て去った悪人はこの限りではありません。繰り返しますが、心の性と生物学的な性が一致しないから違和感を抱いているではなく、神の御言葉や神の律法に背いているので心で違和感を抱いているのであろうと考えます。何故なら心の性と生物学的な性が一致しないのは惑わしに過ぎないからです。すべてを創造された神は、人間を男と女の二種類に創造されました。(旧約聖書 創世記一章二十七節 参照)また、女と寝るように男と寝てはならない。それは嫌悪である。(旧約聖書 レビ記十八章二十二節 参照)とも仰っており、創造主なる神は同性愛を嫌悪しておられ、断じて性的倒錯など認めておられません。故に、性に違和感を持つ人は、惑わされているのです。真実であられる神は人間をそのようには作られていないからです。当事者は、性に違和感を持ち、苦しみ悩んでいるという認識なんでしょうが、神に逆らうが故にそのような違和感を抱くことになり苦しむことになるのです。その事実に気付いて直ぐに性的倒錯を止めるべきです。すべての性的倒錯を創造主なる神は罪に定められますが、真に悔い改めれば赦されない罪ではないのです。こちらの記事(真の聖書福音と預言「同性愛、同性婚と獣の刻印」)が参考になりますのでご確認いただければ幸いです。

先述したように、バラムは自身の金銭欲という肉の欲が自身の心を占領したために、違和感を抱けなくなり自身の暴走を止めるための制動装置が働かなくなり、暴走を止めることが出来なくなったのではないかと考察しました。同様にLGBT等の性的倒錯者も性欲という肉の欲に心が支配され、違和感を抱けなくなり自身の暴走を止めるための制動装置が働かなくなり暴走している状態であろうと考えます。どちらも神の掟よりも自分の欲を優先し、神に従わない故の暴走であり、悔い改めなければ、死後には第二の死である地獄行きに定められます。故に、今すぐにでも聖書を通読して、学び、実践されることを強く推奨します。

聖書から神の御言葉を学び、身に付けて、実践すれば、正しい判断が出来るため惑わされることが無いからです。人間には一人として正しい人は居らず、正しい方は神しか居られないので、神の御言葉と神の掟から正しさを学ばなければ正しい判断など出来ません。何の根拠も無く、自分は正しいと思う等の人間の主観的な判断で生きれば最後には滅びます。しかし、神の御言葉や掟に従って生きれば、正しい方の言葉故に、判断を誤ることは決してなく、また、惑わされることはありません。

 

 既に聖書を読んで神を信じており、主イエスへの信仰があるという方々は、神の御言葉と神の掟を守っているでしょうか。天の父なる神を知っており、主イエスへの信仰があるならば、「新しい契約」を結んでいるはずです。我を通らなければ、誰も父の許に行くことができない。(ヨハネによる福音書十四章六節 参照)と主イエスは仰り、新しい契約の仲介者イエス(ヘブライ人への手紙十二章二十四節 参照)と書いてあるとおりで、「新しい契約」は、エレミヤ書三十一章三十三節にあるとおり、心に律法が記されます。※律法とは言うまでもないですが、十戒だけを示すのではないことに注意してください。)

古い契約は、古代イスラエル人のみならず、すべての人間がモーセの律法をすべて守れば神は救うという契約や。新しい契約は、エレミヤ書三十一章三十三節にあるとおり、心に律法を記すとあることから、すべての人間が律法を守り行う義務は古い契約と変わりなく、罪の贖いの形態が以前は動物の犠牲の儀式をしていたんを、罪無き神の子羊たる主イエスの十字架での犠牲に置き換わって天の大祭司とならはったことで、動物の犠牲制度や神殿や祭司制度等はもはや地上で行う必要が無くなった等と一部変わっただけの言わば「契約の更新」なんや。それやのに、偽使徒パウロの狂信者どもは、律法全部が廃止された、または十戒のみでええといった聖書(パウロ書簡を除く)に書かれてへん大嘘を吹聴し、エレミヤ書に書かれてる新しい契約に反すること、福音書に記録されてる主イエスの律法を廃止せえへんという教えに反することを平気で言うており、反キリストであると彼らは自ら証言してる。

  (真の聖書福音と預言「日本人の問題点三」)

 

 

 新しい契約を結んだ者ならば、心に律法が記されているので、律法を守ろうとするはずですし、万が一、律法に違反する行いをしてしまったなら心が痛むはずです。また、心に律法が記されているのに、律法は廃止されたという偽使徒パウロの教義を基に作られた律法廃止論など信じるはずがないです。もし新しい契約を結んでいて心に律法が記されているのに、律法は廃止されたから守らなくていいと言う人がいるならば、その人は間違いなく偽り者です。それ故に、現在律法を守っていない人や律法は廃止されたから守らなくていいと考えている人は、新しい契約を結んでいないか新しい契約を遵守していないことになります。このことは聖書を読めば分かることですし、もしこのことが理解出来ないなら惑わされています。現在神の律法を守っていない人で、少しでも律法を守っていない自分自身に違和感が生じるなら、そのまま無視せずに放置することなく聖書に立ち返ることを強く推奨します。何度も述べますが、バラムは自身の肉の欲によって違和感を抱けなくなり暴走しました。律法廃止論を支持している人は、この世で放縦に生きており、すべて肉の欲によって、違和感を抱けなくなり暴走しているのではないかと思われます。世の友となろうとする人は誰でも神の敵です。(ヤコブ四章四節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義二」)と聖書に書いてあるように、世に迎合し、自分の肉の欲を満たすために生きれば、違和感という制動装置は働かず暴走します。もし同意していただけるなら今すぐに聖書通読を開始されることを強く推奨します。そして、聖書通読と共に真の聖書福音と預言を併読すると聖書の真理が理解出来るかもしれません。また、主イエスは、「兄弟で互いに愛し合いなさい。」と御命令され、これを新しい掟とされました。この掟を守るためという側面もありますが、人は完全では無い故に一人では過ちを犯しますし、一人ではそれを指摘し合う事も出来ません。また、他人に奉仕することも、隣人愛を育むことも出来ません。それ故に、こちらの記事(真の聖書福音と預言「兄弟の集いの場に関する告知 再掲」)をよく読んでいただき、納得されましたら、兄弟の集いの場の参加申請を管理人のミカエル氏にしてみて下さい。

残された時間は非常に少ないと思われます。お互い後悔することが無いように頑張りましょう。また、共に最期まで歩くことが出来る兄弟姉妹が一人でも現れることを願っています。最後まで読んでいただきありがとうございました。