こんにちは。

 

今回は「ともし火には影が無い」と題して書きます。突然ですが、新約聖書には以下のたとえ話があります。

 

そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 

愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 しかし主人は、『はっきり言っておく。我はお前たちを知らない』と答えた。 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。

(新約聖書 マタイによる福音書 二十五章一節~九節 参照)

 

今初めてこのたとえ話を読んだ人はどのように感じられたでしょうか。また、既に聖書を読んだことがある人は、初めてこの箇所を読んだ時には、どのような感想を持たれたでしょうか。もし読者の方がこのたとえ話の花嫁であったとして、同じ状況で花婿を待っているなら、どのような対応を取るでしょうか。愚かなおとめたちと賢いおとめたちがそれぞれ取った対応のどちらを選択しますか。このように質問されて愚かなおとめたちが取った行いを選ばれる人は居ないでしょうが…。誰でも自分の最も大切な人を迎えようとする時には、万全の体制で迎えたいと思うでしょうから、落ち度が無いように、入念に準備するだろうからです。それ故に、愚かなおとめたちが取った行いからは、花婿への愛が一切感じられません。何故なら愚かなおとめたちは、ともし火を持って明るい状態で花婿を迎え入れたいという思いが希薄であるからであり、また、実際の行いに表れていないからです。家族と住んでいる人なら、自分が先に家に帰ったら、玄関の灯りを点けて明るい状態にしておき、後から帰ってくる家族を迎え入れることでしょう。また、慈愛がある人なら、花婿にだけで無く、誰に対しても、ともし火を持って明るい状態で自分のいる場所に迎え入れたいと思うはずです。ともし火を持って待つことは、待ちわびている心が行いとして表出しているといえます。また、花婿がいつ到着するか分からない状態では、ともし火を常に燃やし続ける必要があります。その為の可燃物(ここでは油)を十分に準備しておかなければならないことは誰にでも理解できるはずです。もしこの誰にでも分かるだろう知識を知らないのなら、明らかな勉強不足であり、知識不足です。無知は罪であるのです。自ら努力して知識を得ようとしないのは、明らかにその対象への興味関心が無い証であり、キリスト信仰者であっても、聖書に興味関心が向かず通読しない人は創造主なる神を畏れていないのだろうと考えます。

我が民は知識不足のために滅ぼされる。お前が知識を拒絶したさかい、我もお前を拒絶して我が祭司にはならへん。お前が神の律法を忘れたさかい、我もお前の子らを忘れよう。真の聖書福音と預言「聖書は六十六巻だけが正典やあらへん」 ホセア書 四章六節 ミカエル氏訳)と聖書に書いてあるように、聖書知識を拒絶することは、花婿(神)を拒絶することに等しく、花婿への愛が無い(神への愛が無い)ことの証明になります。しかし、知識があるにも拘らず、神の律法(十戒だけでは不十分)や神の御言葉を意図的に行わないなら非常に怠惰であり(聖書には怠惰を戒める聖句が多数ある)、花婿が望むこと(神の御意志)を知っていながらその準備を怠るような愚かなおとめたちに、花婿への愛が無いのは明白です。慈愛があれば、自発的な思いが湧き上がり、行いに表れるはずで、隣人が喜ぶことをしたいと思い行うはずで、怠惰であることはあり得ないはずです。行いに表れないということは、その人への慈愛が無く、慈愛よりも怠惰が勝り、更には、自己愛もが勝っているということだろうと考えます。繰り返しますが、慈愛があるなら、隣人が何を求めているのか、何をすれば喜んでくれるかを必死に考えるだろうし、今まで交わした会話等を覚えていてその人が喜ぶことを自発的にするでしょう。これらのことを考えてみると、やはり愚かなおとめたちは、客観的に見て、花婿を心から愛していないことが明白ですね。花婿を愛しているのではなく、彼が持つ莫大な富や権力に引かれているのです。それ故に、花婿も自分を愛さない人を愛すことはないのです。その証拠に、愚かなおとめたちは、花婿から最後に『はっきり言っておく。我はお前たちを知らない』と言われます。花婿は初めから愚かなおとめたちの心の中を知っており、自分に対しての愛が無いことをも知っていたのです。当該主イエスのたとえ話以外でも「あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。(真の聖書福音と預言「二種類の基礎 」 マタイ七章二十三節 ミカエル氏訳)と他の箇所でも同じことを主イエスは仰りました。御自身への愛が愚かなおとめたちには無いことを初めからご存じなので、最後の裁きの時には、「あんた方のことは全然知らない。」と拒絶されるのです。神は愛である(ヨハネの手紙一 四章十六節 参照)のに拒絶されるのは、拒絶した人の内に愛が無いからです。偽ることが出来ない御方は、御自身への愛が無い人を御許に引き寄せないはずです。何故ならその人自身が神を愛していないので御許に行くことを望んでいないからです。これも客観的に明白なことです。それでも彼ら彼女らが、「主よ、主よ」と呼ぶのは、彼の莫大な富と権力に引かれているからです。

 

これは神の掟を守ることが神の慈愛であるからであり、神の掟は難儀やないで。

(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義  ミカエル氏訳と使徒ヨハネが述べているように、神を愛する人は神の掟を守ります。よって、使徒ヨハネの言葉より、神を愛していない愚かなおとめたちは皆、神の掟を守っていない人たちであることが分かります。ちなみに、当該たとえ話の聖句で「愚かな」と日本語訳されているギリシャ語原語μωρόςには、「愚かな」という意味以外に、「無神論(者)」「不信心な」等の意味もあり、当該聖句の愚かなおとめたちは、神が存在されることを知ってはいることから(賢いおとめたちと共に花婿を待っていることから)、神から招かれている者たちであるが、神の掟を守らず、真理のうちを歩いていない者たちであることが原語の持つ意味からも推測できます。

あなたの子供たちの中に、我らが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。(ヨハネの手紙二 一章四節 参照)と使徒ヨハネが述べているように、天の父なる神の掟(神の律法、掟、戒めのことであり、十戒だけのことではない)に従って生きる人が、真理の道を歩いている人であることが分かります。また、この使徒ヨハネの言葉からも、主イエスが昇天した後も、神の律法、掟、戒め(十戒だけでは不十分)を真のキリスト者たちは守っていたこととそれらが廃止などされていないことが分かります。

そして、当然のことながら、使徒ヨハネの言葉に逆らい、天の父なる神の掟に従って生きないなら、真理の道を歩いていないことになります。これも客観的に明白なことです。当ブログでも何度も書いていますが、主イエスは、十二使徒を受け入れる人(彼らの語った言葉を神の御言葉であると信じて、神の御言葉と同じように従う人)は、主イエスと御父を受け入れる人であると語られました。(マタイによる福音書 十章四十節 参照)それ故に、当該使徒ヨハネの言葉は神からのお墨付きを得ており、信頼に値する言葉です。これは聖書(偽使徒パウロの書簡を除く)から導き出される矛盾の無い結論です。

しかし、主イエスから何のお墨付きも得ていない偽使徒パウロの書簡に基づいた現代に蔓延る教義は、当該使徒ヨハネの言葉に反しており、聖書(偽使徒パウロの書簡を除く)全体からも整合性が取れません。これも客観的に明白な事実です。それ故に、偽使徒パウロの書簡に基づいたこの世に蔓延している教義は反キリスト教義です。御父と主イエスと十二使徒たちの言葉に反するからです。道を引き返すなら今しかありません。パウロが偽使徒であると未だ知らない人はこちら(真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒」)の記事を読んでみてください。

 

当該「愚かなおとめ」のたとえ話の中の「油」とは下記引用文のとおりの意味があります。

 

愚かなおとめたちは油が無く、分けて欲しいと頼みますが、それは分けてもらうことができません。ここでいう油は、聖霊を象徴します。聖書には多く「油を注がれた」という表現を目にしたことがあろうかと思います。(中略)過去記事主イエスの受肉」で説明したとおり、聖霊を受けると生まれ変わる前と品性が変わります。その経験は、個人的な経験なので、人に分け与えたり、貸し与えることは出来ないのです。(中略)聖霊を受けて真のキリスト者にならないと、主イエスから「知らない」と言われるのです。

(真の聖書福音と預言「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」)

 

聖霊を受け成長を続けて真のキリスト者にならなければ、最後に主イエスから「あなたのことは知らない」と言われるのです。また、主イエスは御自身を愛する人は、神の律法、掟、戒め(十戒だけでは不十分)を守るので、主イエスがその人の為に天の父なる神に依頼するので聖霊がその人に与えられると仰っており(ヨハネによる福音書 十四章十五節~十七節 参照)今まで述べてきた「愚かなおとめ」のたとえ話と矛盾しません。花婿を愛していない人には、聖霊が与えられないということです。先にも述べたように、花婿を真に愛している人は、花婿の御意志が何であるかを知り、その御意志を行います。賢いおとめたちは、ともし火を持って花婿を明るい状態で迎え入れたいという花婿への愛故に油の準備を怠らず、勿論、自身が婚宴の席に着くこと(救い)についても無頓着にはならず、その為の準備を怠りませんでした。それ故に、たとえ花婿の到着前に眠ってしまっても、ともし火は消えることがなく、花婿の到着と共に、ともし火を整え、花婿を明るい状態で迎え入れることが出来ました。しかし、反対に愚かなおとめたちは、花婿の到着時にやっと油が必要だったことに気付き慌てふためきますが、時既に遅しで、油は花婿を愛する人が彼の御意志を行うことによって与えられるものであるし、他人から分けてもらう性質のものではないので、結局、油を用意することが出来ず機を逸してしまいました。この油を断つことは永遠の運命を分かつことであり、後悔してもしきれない程のことであるので、わし自身も後悔しないように励むと共に、何度も同じ事を語るようですが周知しています。

 

余談ですが、「油断」という言葉の意味は、「気を許して注意を怠ること」ですが、「油断」の語源には一般的には三説あるようです。参考までにこちらをご参照ください。ただ、「油断」の語源は、言葉は神であった。(ヨハネによる福音書一章一節 参照)と聖書に書いてあるとおり、創造主であられる主イエスがたとえを用いて述べられた「愚かなおとめ」の箇所が語源になっているのではないかと個人的には考えます。

ただ、先に参照した「油断」の語源と言われている三説の中にも興味深い説があります。一つは、仏教の経典「涅槃経」の中の教えから来たという説で、印度の乱暴な王が、臣下に油を一杯に注いだ鉢を持たせ、人通りの多い道を歩かせ、一滴でも油をこぼしたら命を絶つと命令し、その臣下は命令を全うしたというお話です。「油をこぼしたら命が絶たれる」という理不尽なお話ではありますが、油を一滴でもこぼすことは命が絶たれることであるのは先述したように、聖書が教える真理に近く、当該仏教の経典「涅槃経」の中の教えの内容は聖書の真理と遠くはなく、油を断つことは命を失うことという意味は同じです。非常に興味深い一致だと思います。

また、もう一つ「油断」の語源を挙げるならば、比叡山延暦寺の「不滅の法灯」が語源の由来であるとするものです。不滅の法灯のともし火は絶やしてはならないとされており、その為には毎日「油」を注ぎ足さなければいけません。もし気を緩めてしまい、油を注ぎ足すことを忘れてしまったならともし火は消えます。決して油を絶やすことがないようにという意味で油断という言葉が生まれたという語源です。この不滅の法灯も聖書に由来があります。旧約聖書のレビ記六章六節(新共同訳)には、祭壇の上の火は常に絶やさず燃やし続けるという掟があり、これは比叡山延暦寺の「不滅の法灯」よりも古くから存在する掟です。こちらの語源も聖書由来と思われ大変興味深いと思いました。

 

ここまでは新約聖書の主イエスが語られた、たとえ話である「愚かなおとめ」について主に考えてきました。聖書(偽使徒パウロの書簡を除く)を通読した人なら共感していただけるのではないかと思いますが、聖書(偽使徒パウロの書簡を除く)は著者や書かれた時代が異なるにも拘らず、実に整合性が取れた書物であるということです。聖書(偽使徒パウロの書簡を除く)は、聖霊が人間に書かせた書物であるので矛盾が生じないのは当然であり、もし矛盾等が生じるならば、聖霊によって書かれたものでは無いことになります。神には矛盾等無いからです。それ故に、神の御言葉に反する言葉を数多く残した偽使徒パウロの書簡のすべての言葉を鵜呑みにするのは大変危険です。今回は深堀しませんが、読んだことの無い人はこちらの記事(真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」)を是非読んでみてください。こちらの記事は七回まで続く連載となっています。すべての記事を読んで、更に聖書からも確認すれば、如何に偽使徒パウロが神の御言葉と矛盾していることを述べていたのかがよく理解出来ると思われます。

 

聖書が整合性の取れた書物であることの例として、先述した新約聖書の主イエスが述べられた「愚かなおとめ」のたとえ話は、以下の旧約聖書の箴言十三章九節の聖句とも整合性の取れたものです。

 

正しい者たちの光は輝き、悪しき者たちのともし火は消される。(旧約聖書 箴言十三章九節 参照)

 

当該箴言で「正しい者」と日本語訳されているヘブライ語原語はצַדִּיקִיםであり、「正しい者」という意味以外にも「法を守る者」等の意味があります。そして、「悪しき者」と日本語訳されているヘブライ語原語はרְשָׁעִיםであり、「悪しき者」以外にも「罪を犯した者」、「敵対心を持つ者」等の意味があります。それ故に、当該箴言は、神の律法、掟、戒め(十戒だけでは不十分)を守る者のともし火は光となり輝き続け、反対に神の律法、掟、戒めを守らない者(罪を犯す者)のともし火は消されるとも読めます。当然、主イエスの「愚かなおとめ」のたとえ話とも矛盾しません。ともし火を燃やし続けるには、聖霊が必要であり、聖霊を賜るには、主イエスへの愛故に神の律法、掟、戒め(十戒だけでは不十分)を守る必要があるのです。反対に、御父の掟を守らずに、真理の道を歩かない人には、聖霊は与えられず、ともし火は消されます。そして、ともし火が消されるとは、「愚かなおとめ」の主イエスのたとえ話からも分かるように、永遠の滅びの宣告を受けることともいえます。

 

 

画像引用元:https://twitter.com/__LqsO7/status/1227238115204464645

 

 

上記画像のように、火には影が出来ません。何故なら火は光であり、光は影を作る側であるからです。決して光が影になることはありません。神は光であり、神には暗闇が全くありません。(ヨハネの手紙一 一章五節 参照)と使徒ヨハネが述べているように、もし自分の内に聖霊が内在するならば、その人は光に属しており、光を放つ側であるが故にその人には影はなく暗闇は全くないはずです。自分の内にあるともし火が輝き続けるためには、絶えず油が必要であり、油が無くなれば、当然、ともし火が消えます。そして、油が無くなれば光を放つことが出来ず影を作る側から、影を作られる側になります。故に、油が無くなくなれば、その人は光ではなく暗闇に属す人になります。光に属すとは神に属す者、暗闇に属すとは悪魔に属す者です。これらは相反するものであり、一致しません。悪を行っている者は皆、光を憎む。そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。(ヨハネによる福音書三章二十節 参照)暗闇は光を理解せんかった。(真の聖書福音と預言「日本人の問題点一」 ヨハネによる福音書一章五節 ミカエル氏訳)と聖書に書いてあるように、暗闇にたとえられる悪魔に属する者たちは、光である神と神に属する者を憎み、自分の悪事が暴かれることを恐れたり、悔い改めを拒否して光の方に来ないですが、神に属する者たちは、神が光の中に居られるように、我らが光の中を歩むなら、互いに交わりを持つ(ヨハネの手紙一 一章七節 参照)のであって、自分が罪人であると認識しており、自分の罪を神に告白し、日々悔い改めに励み、神と神に属する者と積極的に交わりを持とうとします。先に述べたとおり、神に属する者として聖書が保証している人たちは、主イエスからお墨付きを与えられた十二使徒たちであることは疑いようがありません。使徒ペトロは主イエスからあなたに天の御国の鍵を授けよう。(マタイによる福音書十六章十九節 参照)とまで言われました。そして、現代においては、十二使徒たちの言葉をも神から受けた言葉だと信じてその言葉を守り続ける人たちが神に属する者であることは論理的に当然の帰結です。反対に主イエスから何のお墨付きも得ておらず、反キリスト教義を唱えた偽使徒パウロとその言葉を守る人たちは、神に属する者ではなく、悪魔に属する者であることがご理解いただけるはずです。神に属する者は、罪を犯したり、罪に加担することを避けるため、暗闇と集うことを避けます。反対に、悪魔に属する者は、光によって自分の罪や悪事を指摘されることを極度に嫌うため、光の方には来ません。それらの行いは現実逃避をしているに過ぎず、悔い改めを拒否しているのに過ぎません。繰り返しますが、光と暗闇は一致することが無いのです。我は悪を行う者らの集いを憎み、悪しき者らと共に座りません。(詩編二十六編五節 参照)とあるように、神に属する者も、悪しき者らの集いを憎みます。

 

「類は友を呼ぶ」ということわざは真実です。聖書にも「悪事をはたらく者は悪の唇に耳を傾け、偽る者は滅亡の舌に耳を向ける。」(箴言17:4)とあるとおり、悪人は悪人の言うことに聞き従い、徒党を組むのです。だから、悪人は正しい人の言うことに耳を傾けませんし、主イエスの教えにも異議を唱えたり、曲解したりして素直に従わないのです。にわかクリスチャンたちが偽預言者、偽教師、偽使徒らに耳を傾けることも上記聖句のとおりです。

真の聖書福音と預言「差別と侍の本義について」)

 

上記引用文のとおり、悪人は悪人の言うことに聞き従い、正しい人の言うことに耳を傾けません。それ故に、すべてにおいて正しい創造主であられる主イエスの言うことさえも耳を傾けません。よって、主イエスがお墨付きを与えた十二使徒たちの言葉にも当然聞き従いません。しかし、悪人は偽使徒パウロの言葉には聞き従います。偽使徒パウロが悪人だからです。にわかキリスト者たちが、天の父なる神、御子イエス、十二使徒たちの言葉に従わず、偽預言者、偽教師、偽使徒パウロの言葉に従うのは、彼ら彼女らが悪人であり暗闇であるからです。先に述べた「愚かなおとめ」のように、常に目を覚まして準備を整えていないので、不意に訪れる主イエスの再臨の時に、自分が準備不足であったことに気付かされ絶望することになるのです。立ち返るなら、今しかありません。今からでもやり直したいという人は、聖書の複数回通読とこちらの記事(真の聖書福音と預言)を初めから短期間で読み進めることを強く推奨します。しかし、それでも光の方に来ない人は、光であられる主イエスが彼らから身を隠しているともいえます。

 

光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。(ヨハネによる福音書十二章三十六節 参照)

 

主イエスは、群集に向って述べられた後、彼らから身を隠されました。この御言葉は、主イエスを信じなかった群衆が悪魔に属する者であり暗闇であったことを象徴しているかのようにわしには感じられました。主イエスは群衆が御自身を信じていないことは初めからご存じでした。故に、大いなる光は、彼らを照らさなかったのであり、彼らは暗闇のままであったと考えます。よって、当該聖句で、「立ち去って彼らから身を隠された。」と書いてある箇所は、「暗闇である彼らを大いなる光が照らすことはなかった」とも読めるのではないかと推測します。その後に続く聖句には、預言者イザヤの言葉が実現する為であった(ヨハネによる福音書十二章三十八節 参照)とあり、「神は彼らの目を見えなくし、その心を頑なにされた。」(ヨハネによる福音書十二章四十節 参照)とも書いてあることから、預言が実現したに過ぎませんが、それは彼らが不信仰であった為に光は照らされず暗闇の中を歩き続けることになったのです。

 

我は世の光である。我に従って来る者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つだろう。          (ヨハネによる福音書八章十二節 参照)

 

光に背く者たちがある。彼らは光の道を知らず、光の小径に留まらない。

(ヨブ記 二十四章十三節 参照)

 

上記に引用した聖句からも分かるように、光であられる主イエスに従う者は、暗闇の中を歩むことはありません。また、光であられる主イエスに従わずに背く者は、そもそも光の道を知らず、命に通じる狭い道に留まることが出来ません。上記聖句で主イエスが断言されているように、主イエスに従う者は、暗闇の中を歩くことはなく、光の道を歩くことが出来るのです。しかしながら、主イエスは御自身に従いたいという人に向けて次のように語られました。我について来たい者は、自分を否定して、自分の十字架を背負って、我に従いなさい。(マタイによる福音書十六章二十四節 参照)当該聖句のとおり、御自身に従う前に、二つのことを課されたのです。まず、自分を否定せよと語られました。これは主イエスが伝道を始められる際に、初めに語られた「悔い改めよ。天の王国が近付いたからだ。」(マタイによる福音書四章十七節 参照)という言葉と同義であると考えます。何故なら自分を否定しなければ、悔い改めは始まらないからです。自分を否定し、自分の今までの行いを悔いることによって、自分の罪深さに気付き反省し、悪い行いを改めていくことが出来ます。しかし、自分を肯定していたら、いつまで経っても悔い改めることは出来ません。そして、何よりも主イエスの御言葉に逆らうことになります。それは反キリストの業です。次に、主イエスは自分の十字架を背負いなさいと語られました。十字架と日本語訳されているギリシャ語原語はσταυρόςであり、この原語の比喩的な意味として、自己否定や自己犠牲の意味があるようです。それ故に、この言葉からも主イエスは自分を肯定するようには仰っていないです。

 

新約聖書 ヨハネによる福音書 八章三十一節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

 

主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば」と条件を付されています。要するに、主イエスの御言葉や御命令に逆らうことを言ったり、曲解したり、付け足したり、削ったりする者は主イエスの弟子でもクリスチャンでもないのです。そして、そういう者は悪魔の子なのであり、反キリストです。

(真の聖書福音と預言「自由と律法に対する誤解」)

 

上記の主イエスの言葉もキリスト者ならば心に刻まれており実践しているはずです。よって、自分を肯定し続け、悔い改めない人は反キリストなのです。それ故に、「我と共に居らへん者は我に敵対し、我と共に集めへん者は散らしてる。(真の聖書福音と預言「日本人の問題点 一」 マタイ十二章三十節 ミカエル氏訳)という言葉に反した行いをする人も反キリストです。天の父なる神、主イエス、十二使徒たちと共に居て、共に活動しない人は神に敵対する人なのです。それは当然ながら現代においても同様です。現代においては、天の父なる神、主イエス、十二使徒たちの教えを守っている人と共に居らず、共に活動しない人は主イエスの御言葉に逆らう反キリストです。また、使徒ペトロが語った使徒の要件(使徒言行録一章二十節~二十二節参照)にも「いつも我等と一緒に居った男たち」とあり、上記の主イエスの御言葉とも一致する言葉であり、「一緒に居る」ということは使徒になるためには絶対に必要な要件なのです。一緒に居るというのがどれだけ重要なことであるのかが分かります。何故それ程までに重要なことであるかは先述したように、光と暗闇は一緒に居ることが出来ないからで、それによって所属が分かるからであろうと考えます。偽使徒パウロも光である十二使徒たちの許には来ませんでした。正確には来られなかったのでしょう。先にも引用したように、悪を行う者は皆、悪い行いが明るみに出るのを恐れて、光の方に来ないからです。また、光の方に来ないことが既に有罪判決になっています。(ヨハネによる福音書三章十九節 参照)悪い行いが明るみに出ることを恐れるということは、自身の罪を隠しているのであり、それは嘘をついていることでもあり、また、自己愛の故に自分が罪人だと認めていないのであり、悔い改めを拒否しているのです。よって、そのような人は自分を否定して、自分の十字架を背負っていないので、そもそも主イエスに従えていません。それ故に、自分では光の道を歩いているつもりでも実は暗闇の中を歩いているのです。偽使徒パウロの教義に基づいた世の諸教会は、光ではなく暗闇であり、世の諸教会に従う人たちは、暗闇を歩く人たちです。これは聖書が示す真実です。暗闇を歩くのではなく、光の道を歩くべきです。そうするには、先に示した主イエスの御言葉に従う必要があります。そして、天の父なる神、主イエス、十二使徒たちの教えに基づき、光の道を歩いている人と共に居て、活動することが必須なのです。現代において、わしが知る限りでは真の聖書福音と預言の著者であるミカエル氏以外、天の父なる神、主イエス、十二使徒たちの教えを忠実に守り、実践している人を知りません。そのことは聖書と彼の書いた「真の聖書福音と預言」の記事を最初から最新のものまで読めば理解出来るでしょう。もしあなたもそう確信を得たなら、こちらの記事(真の聖書福音と預言「兄弟の集いの場に関する告知 再掲」)をよく読んでいただき、納得されましたら、兄弟の集いの場の参加申請を管理人のミカエル氏にしてみて下さい。残された時間は非常に少ないと思われます。暗闇の中を手探りで歩くのではなく、光の中を確信を持って歩く人が一人でも多く現れることを願っています。最後まで読んでいただきありがとうございました。