覚え書き『フローラへの思い』〜初稿完成から4年と7ヶ月、改訂着手から1年と2ヶ月〜
『フローラの不思議な本』は2007年の夏に「第十回ちゅうでん児童文学賞」に応募するために書かれた作品です。
起稿は2007年7月10日になり、脱稿は同年の9月23日。
一夏二ヶ月で書かれた長編の児童小説になります。
賞の応募規定の上限となる40字×30行、70枚のすべてを使って書かれていて、400字詰め原稿用紙に換算すると190枚弱といったところしょうか。
いずれにしても本来ならば長編と言うのは、おこがましいくらいの規模の作品です。
初稿となるこの最初の『フローラの不思議な本』は、脱稿したその日の内に、あわただしく封筒の中に入れられ、発送されています。
じつを言うと、こうして完成した『フローラの不思議な本』の初稿は、ぼくが完結させることのできた2作目の長編になります。
『フローラの不思議な本』の前に、ぼくは、長編の児童小説として2005年の12月、『すもも、クリスマスのお買いものに行く』という作品を書いています。
新宿に家族で買い物に来た8才の少女すももが、弟のとまとと一緒に迷子になって一騒動起こすというシンプルな内容のお話しです。
メルヘンでもファンタジーでもありません。
すももの登場する物語は家族の物語であって、少女の成長を時を追って描いていく成長物語になります。
他にも300枚規模の長編を1編、30枚規模の短編を1編書いていますので、そう遠くないうちに紹介できる日が訪れるかもしれません。
ただ、これら、すももの物語は今までこのブログで紹介してきたどの作品とも毛色が違います。
今ぼくが書いているのは主にメルヘンです。
ぼくにとってメルヘンとは、単に子ども向けのお話しというだけにとどまりません。
それは現実の世界に存在する様々な事象を、ぼくというフィルターを通過させることによってメルヘンの世界へと投影させた写像なのです。
つまり現実を写実する表現方法のひとつとして、ぼくはメルヘンを選んでいるのです。
いっぽう、すももの物語に描かれているものは理想になります。
現実の世界にはない別の世界の出来事が、現実の世界に投影されているのです。
先のメルヘンとは逆の軌跡をたどる逆の写像になります。
ですが、それもまたメルヘンです。
擬人化された動物や架空の生きものたちが登場しない、現実の世界の中で育まれていくメルヘンなのです。
こうした『すもも、クリスマスのお買いものに行く』は、このブログでも何度か登場している中央図書館Aこと中野区立中央図書館で書かれました。
とはいえ、ぼくの住んでいる場所から歩いて行ける距離にある大きな図書館は、何も中野区立中央図書館だけではありません。
新宿区立中央図書館もまた、歩いて行ける距離にあります。
どちらの図書館もほぼ同じ距離にありますので、普段であれば気分によって変えることもしばしばなのですが、お話しを書いている最中ともなれば、そのお話しが終わるまで、ずっと同じ行動を取り続けて同じ図書館に通うこともしばしばです。
長編2作目となる『フローラの不思議な本』は、中央図書館Bにあたる新宿区立中央図書館で書かれました。
2007年の夏、ぼくは毎日のように朝から晩まで高田馬場にある新宿区の中央図書館に居座り続けたのです。
『フローラの不思議な本』は2作目の長編ということもあり、わりと簡単なメモを取っただけで書かれています。
テーマもアウトラインも、あってないようなもので、そればかりか、メモを取りながら平行して書き進められていています。
今はアウトラインはともかく、最低限テーマだけは、しっかり決めてから書くようにしてますから、より規模の大きい『フローラの不思議な本』が、いかに、いい加減な状態で書き始められたかが分かるかと思います。
こうしたことは、第1作目の『すもも、クリスマスのお買いものに行く』の反省によって導かれたものです。
『すもも、クリスマスのお買いものに行く』では、綿密に構成が練られた後で書き始められました。
構成をきちんと決めてから書くと確かに書くのは楽になるのですが、その反面、柔軟さに欠け、アドリブが効かなくなり、お話しの世界が徐々に硬直していくのは否めないように思います。
ガイドラインの域を超えて構成が、呪縛となってしまうです。
そうならないために何をすべきか。
それをふまえた上で『フローラの不思議な本』は書かれました。
もともと『フローラの不思議な本』は2005年の6月に見た夢に着想を得たお話しですので、創作ノートの中に文字となって残されているもの以上のイメージが既に頭の中にあったということでもあるとは思うのですが、ざっくりと決められたアウトラインにそって、わりと自由に書かれているそのスタイルは今に通じるものであり、ぼくの好きなスタイルとなっています。
音楽であれば、軽く打ち合わせしてセッションを始めるようなものなのかもしれません。
こうした書き方が、お話しの世界を活き活きとさせることは間違いありません。
ああなって、こうなって、結局そうなったいという論理的な思考に訴えかけるお話しではなく、心にダイレクトに訴えかけるお話しが書けるような気がします。
ただそのいっぽうで、要求される技術レベルは高くなります。
『フローラの不思議な本』初稿を書いた時点では、ぼくにはその技術力がありませんでした。
残念ながらそれは、人にお見せできるレベルのお話しではなかったのです。
『フローラの不思議な本』は初稿完成後、長い眠りにつきます。
3年もの間、それは一度もひもとかれていません。
それを改めてひもといたのは、2010年の秋になってからです。
今回の創作タームを始めるにあたって行った、過去の作品を見直す作業の一環としてでした。
そのときの印象では、文章は駄目だが、話しは面白い。
すぐに、ぼくは改訂の準備作業に入ります。
そして翌2011年の2月に、『灰色の虹』、『雪だるまのアルフレッド』などと同じ主題を持つ「ダークメルヘンのための連作」に組み込む形でテーマを変え、本格的な改訂作業に着手しはじめるのです。
「ダークメルヘンのための連作」シリーズ。左から、その1 『灰色の虹』(2010.12.17)、その2 『雪だるまのアルフレッド』(2011.1.22)、その3 『時の記憶』(2011.2.11)、その5 『白水仙』(2011.3.25)、その6 『葉ざくら』(2011.6.13)、その7 『鈴子』(2011.6.18)。現在欠番となっている連作その4が『フローラの不思議な本』にあたる。 |
この改訂における最大の変更点は、最終章のあとについていた詩(歌)の切り捨てです。
『フローラの不思議な本』の初稿では、本が消え、物語が完全に終わったあとに、フローラが主人公たかしの夢の中に現れて歌を歌うという設定のもとで綴られる歌がついていたのです。
もともとの第十三章のタイトルは『おわかれの歌』でした。
けれども歌を切り捨てたことによって、物語を閉じたあとに続くイメージは完全に読者の手にゆだねられたことになります。
たかしが夢でいいから会いたいと願ったフローラへの思いが叶えられたかどうかは、もはや分からなくなってしまったのです。
こうした構成は「ダークメルヘンのための連作」の主題を持つ一連の物語に共通した特徴なのですが、これによって悲劇的な最後を迎えることになる主人公たちへ向けられるはずの救いの手は、作者であるぼくではなく、読者が直接差し伸べなければならないものとなったのです。
でも、どうでしょう。
『フローラの不思議な本』で大きく変えたところといえば、それだけなのです。
改訂作業の大部分は、文章をより読みやすく、より分かりやすく整理して、物語に厚みを加えるといった再校正作業でした。
それはただ大変なだけで、じつに、おもしろみのない作業です。
元の文章は稚拙なわりに、かなりコンパクトにタイトに、まとめられていましたので、それはなおさら大変な作業と感じられました。
2011年2月から始められ、他のお話しを書きながら少しずつ進められていた『フローラの不思議な本』の改訂作業は、結局は2011年7月には中断されてしまいます。
過去の作品に手を入れることの難しさ。
それをぼくは『フローラの不思議な本』で十分すぎるくらいに味わいました。
でも、それでも、改訂したい、改訂しなければ、という思いを持ち続けられたのは、ひとつには物語への愛があったからなのかもしれません。
一度完成してしまった物語を心機一転、新たに書き直すのは、ほぼ不可能です。
刺青のように刻まれた文字によって自動喚起されるイメージが、イマジネーションの飛躍を阻害し、いくら頑張ってみてもオリジナルのイメージを超えることができないのです。
要するに、軽薄なイマジネーションと、へたくそな技術で書かれた物語を救済するのは難しいということです。
それは書き直すのではなく、同じ世界を共有する続編を、新たに起こすべきなのです。
これが今回学んだ最大の教訓でした。
ただ、たとえそうであったとしても、最後まであきらめずに『フローラの不思議な本』の改訂を続けられたのは、やはり、ぼくの作った世界を救済できるのは、ぼくをおいて他にはいないという思いをいつもいつも忘れずにいたからです。
手を差し伸べ、それをカオスの闇から引き上げられるのは、ぼくだけなのです。
それが、物語への愛です。
[photo by Remi Mathis] |
けれどもそのいっぽうで、それを支えてくれた、たくさんの人がいたことも事実です。
まず、『フローラの不思議な本』には「ダークメルヘンのための連作」の他の作品同様、ただひとりの引き受け手がいます。
それに絵を描いてくれた、つばさに、ぼくは応えなければなりません。
そして、このブログで連載するようになってからは、多くのみなさんの期待が、ぼくを支えてくれていことは間違いないことなのです。
物語は作り手ひとりの手によってのみ完成されるものではないということを、ぼくは『フローラの不思議な本』から学びました。
それは個人的なものであるという以上に、共有財産的な何かを持ちあわせているように思えてなりません。
このあと『フローラの不思議な本』は製本工程に入ります。
☆☆☆*:.。.ほかにもお話しはたくさんあります.。.:*☆☆☆