2002年生まれて7歳近くなってようやく「チャージ症候群」と診断された障害児のもえもえとの生活を中心に書いています♪
もえもえを授かってから今までの歩みは「過去話」として、リアルタイムの生活は「今日の日記」として書いています。
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通夜、告別式、初七日法要
父の通夜、告別式、初七日法要が無事に終わりました。
私達家族と実家の母だけの家族葬で執り行い、静かに心を込めて父を見送ることが出来ました。
母の長年連れ添った父がいなくなった衝撃や寂しさは娘の私でも本当のところを図り知ることは出来ませんが、それでも多人数に気を遣うことなく家族だけで良いお式が出来たと言ってくれたのでほっとしています。
もえもえも慌ただしいスケジュールにも関わらず落ち着いて参列し大好きだったじいじとの最期のお別れが出来ました。
私達の介助を受けながらとは言え、きちんとじいじの好物の甘い物や花を手向けたり、焼香をしたり、合掌したりとほぼ全てを完璧にこなしてくれました。
1ヶ月前のもえもえが異常行動を繰り返していた時期だったら、こんなに落ち着いて式に臨むことは出来なかったでしょうし、そもそも父を穏やかに看取ることが出来なかったと思います。
父は最後にもえもえのことをしっかりと見守って自分に出来る最高の逝き時、逝き方を選択したのではないかと思わずにはいられません。
これからもしばらくは手続きや父を亡くした母の物理的精神的なフォローで慌ただしい日々は続きますが、前回の記事のコメント欄その他で皆様からいただいた数々の暖かいお心遣いに感謝の気持ちを伝えたく今回出て参りました。
皆様、本当にありがとうございます。
父が亡くなったことはやはり寂しいですが、家族で心置きなく心を込めて見送れたことは幸せだと思います。
落ち着いたらまたいつものブログに戻りますので、よろしくお願いいたします。
私の防災・その400 大切な家族との別れかた~東日本大震災から13年
今日は東日本大震災から13年。
元日に能登半島地震が起き、千葉県沖ではスロースリップが起きて大きな地震への警戒感が高まっていますね。
皆様、災害への備えは進んでいますか?
私の方は前回の記事のコメント返しには書きましたが、先日父が息を引き取り、慌ただしく日々を送っています。
父の意識がある内にもえもえと実家の母も面会することが出来ましたし、更には父の頑張りと旦那の全面的な協力のお陰で最後の日々を穏やかに父のそばに付き添って過ごすことが出来たので悔いを残すこと無く父を見送れました。
不思議な程にもえもえや私の通院、もえもえの通所先のイベントや行動援護による外出等のお楽しみの予定を変更しなくても済むタイミングで物事が進んでいて、もしかしたらもえもえのことを溺愛していた父の最後の気配りだったのか、それとも神様が配慮してくれたのかと思う程です。
火葬場のスケジュールの関係で葬儀はまだ執り行っていませんし、手続き、父の入居施設の片付け、私ともえもえの通院等とやるべきことは多く、長文記事を書く余裕も正直無いのですが、せめて3年前に書いた私達家族の体験談をまとめた記事を載せておこうと思います。
直接間接問わず災害体験からは多くのことを学べます。
私自身も父の阪神・淡路大震災の体験から常日頃からの備えが身に付いていたことで東日本大震災当時も大きな困り事はなく、むしろ旦那の実家やもえもえのお友達の支援に動けていました。
父の体験を活かせたこと、父に感謝ですね。
私はありがたいことに父を穏やかに心残り無く見送れた訳ですが、大きな災害が起きると突然大切な人を失ってしまうつらい経験をされる方が多数いらっしゃいます。
一人一人が備えをすることで犠牲になる方を減らすことは出来る筈です。
父を看取った今年は尚更に大切な人との別れを望まない形で迎えてしまう悲しさ、苦しさについて思いが向かいます。
皆様が自分の備えをして身を守ることが出来れば、大切な人達を悲しませたり苦しませたりしなくて済みます。
家族の備えをすることで大切な家族を守れれば、大切な人を失ってしまう苦しみを味わわなくて済みます。
可能であれば余裕のある備えをしていれば、周囲の人達に支援の手を差し伸べることも可能です。
災害について、防災について考えるのはネガティブなことではなく、むしろポジティブに笑顔で生き抜くために全ての人がしておくべきことだと私は思います。
災害が起きてからでは間に合いません。
大切な人達と笑顔で幸せに生きて心穏やかに最期を迎えられる幸せを皆様も手放すことの無いように備えをしてくださいね。
いざその時に身を守れるかやってみませんか
検索するだけでも支援になります
私の防災・その399 避難をためらわない「助けて」と言える練習を
まだまだバタバタしていますが、東日本大震災からまもなく13年となるこの時期、やはり防災に関する情報に敏感になります。
重度の障害があるもえもえと暮らす私達家族の防災で一番の課題が自宅を離れて不特定多数の人が集まる避難所への避難です。
こちらの記事には東日本大震災と2019年の東日本台風で2度被災した重度障害児のいるご家族のことが紹介されています
この方は重度心身障害児を育てながら障害児支援のNPO法人を運営されています。
この記事では障害児の親が被災した時に一番大きなハードルは
障害児とともに避難所に入る際に自身の心に生じる壁
だったと話していらっしゃいます。
重度心身障害児のお子さんは避難するにも大きくて嵩張り更に電源を必要とする医療機器と共に避難しなければならないので、何処の避難所でも大丈夫とはいきません。
また、身体的な問題がなくても、いつもと違う環境でパニック状態になったり、状況判断が出来ずに大声をあげたり、おとなしく出来ない多動傾向があるお子さんの場合は周囲の人への迷惑になるとの思いが避難を躊躇わせる最大の壁となります。
福祉避難所があるじゃないかと言われそうですが、私達家族が住む自治体を始め、福祉避難所に入る為には一先ず一般の避難所に避難して「福祉避難所に入りたい」と伝える必要があります。
一般の避難所で過ごすことが難しいから福祉避難所に入りたいのに、一般の避難所に行かなければならないと言う矛盾がまた避難を躊躇わせる壁になるのです。
この記事では
その壁を無くす為には普段から地域社会で「共に生きる」繋がりを作ることと「『助けて』と言う練習」
が必要だと訴えています。
記事から一部引用します。
出来るだけ多くの人と事情を知る間柄になれれば、避難所で騒いでしまっても理解を得られやすい。かつて笠間さん家族に避難所の利用を思いとどまらせた「周りの目」を気にせずに過ごせるなら、障害者が避難所に入るハードルはぐっと低くなる。
障害児の親は「この子には私がいなければ絶対だめだ」と考えがちだという。しかし、地域の人に障害児の事情をもっと知ってもらって「私がいなくても、この子は生きていける」と思える関係性を構築できたなら、今度こそ避難をためらわずに済むはずだ。
「私たちには『助けて』と言う練習がもっと必要だ。」
笠間さんは福島から、障害児を育てる全国の家庭にメッセージを発信し続ける。
私達家族も地域のこども会に参加したり、親の会で地域のイベントで障害児(者)の防災についての啓発活動をしたり、福祉避難所の開設訓練に参加したり、出来るだけのことはしてきたつもりです。
記事の最後に毎回載せているまとめ記事の一覧にも載せていますが、こちらにもこれまで書いてきた災害弱者の備えと医療的ケア児者の避難実例まとめのリンクを貼っておきます➡★
やはり実際に体験した人の言葉には体験した人にしか語れない重みがあります。
災害弱者はなかなか社会に出られていない場合が多いだけで案外身近にたくさんいるものです。
障害児(者)の家族が災害時に避難を躊躇わずに動くために出来ること、考えてみませんか。
一人でも多くの方に届きます様に。
先日緊急入院した父ですが、その後もえもえとの入浴中に電話で呼び出され「会わせたい方がいらっしゃるなら今の内に」と言われるまでの状態となりましたが、その後奇跡的に少し持ち直してくれました。
とは言え、いつどうなるかわからない状況にはかわりなく、昼間は私が夜は旦那が付き添って「その時」に備える日々です。
呼び出された時には実家の母も駆け付けましたが、体力的な負担が大きいので一晩付き添った後は私と旦那に父の付き添いを任せて実家に戻り、私達がどうしてもそばにいられないもえもえの通院の時等に来て貰うことにしました。
もえもえと母をまだ父の意識がある内に会わせることが出来ていたので本当に良かった。
父との最後の日々を悔いなく過ごしたいと思います。
もうしばらくは父の付き添いともえもえの通院等で手一杯となりますので、またしばらく更新は出来ないと思います。
皆様のブログにはお邪魔させていただきます。