晴れ、ときどき、美学。 皆川公美子のクミシュラン~★★★ 

クミシュランは、あなたの人生を豊かにするイベントを開催しています。そう、シアワセは感性チャンネルの上に。
【美・アート・心・お仕事】それぞれのクミシュラン。


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【アートとエンタテイメントの境目ってなに】

アートとエンタテイメントの境界線・・・・どこからがアートでどこからがエンタテイメントって決める必要あるのだろうか。
ある一部の世界ではその線引きが重要であるらしい。
エンタテイメントは「お金のために魂を売った的」なちょっとした
後ろ指のニュアンスがあって、
わたしはそれが居心地悪い。。。


いいじゃない♡
売れたらそのほうが(^_-)-☆
いや、もちろん売れなくたってアートの価値に変わりはないけど。
(時代の空気感とかそういうものはあるし・・)
売れることがいやだったらそれでもいいけど。
 


アーティストだって健康な暮らしをし、
欲しいものを手に入れたっていい。
ぜいたくだってしたけりゃすればいい。
それはアーティスト本人が決めることであって、
まわりの人が決めることじゃあないと思うの。


そもそも、アートも音楽も
ごく個人的な体験だとわたしは思う。
みんなが一緒にいる場での体験であったとしても、
心がふるえるようなことって、
音楽やアートと「いちわたし」の間で起こっている。
感動を言葉で共有することはできるけど、
すべての人の感動の形はベツモノだもの。
それが最高に尊いですよね。
 

アートに社会的な位置づけをするということが、
最近のはやりだけれども、
それも楽しいけれど、
それを一番前面に出しすぎるのは、
「表現」をするところのおおもとの人間の欲求から見て
ちょっと危うさが漂うと思うのです。

アートもエンタテイメントもばんざい!
それは人生の華やぎ♡
感性への入り口♡
そして自分の内側の光への入り口♡


【語らせて!倶楽部クミシュランお茶会】■3/15(火) 9時~11時半 横浜ランドマークのカフェ

■3/22(火) 14時~16時半 表参道 カフェラントマン

■3/26 (土)11時~13時半  表参道カフェラントマン

■3/31(木)12時半~14時半 マンダリンオリエンタルアフタヌーンティー

■4/1(金)11時~13時半 堀口珈琲(千歳船橋)

■4/8(金)12時半~14時半 マンダリンオリエンタルアフタヌーンティー

お申し込みはこちらへどうぞ
https://ws.formzu.net/fgen/S5346668/

クミシュランのこれからのイベント

3月17日
 立川奈緒子さんゲスト「インドであったこととこれからの世界」 午前の部 
⇒満席・キャンセル待ち承ります

 立川奈緒子さんゲスト「インドであったこととこれからの世界」 
午後の部
⇒満席・キャンセル待ち承ります

3月27日
 大東豊美さんゲスト 「野村萬斎さんを見たい!」クミシュラン狂言の会
⇒満席・キャンセル待ち承ります

4月19日
 山口由起子さんゲスト
「美的世界の住人さんいらっしゃいvol.7」
⇒満席・キャンセル待ち承ります
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クミシュラン 皆川公美子です。


私のなかでは硬めの記事だけど、
意外な反響を呼んだので、まとめてみました。

ウツクシイもの、現代アートが大好きです。
現代アートのサークルでいろいろなディスカッションをしているなかで、

より明らかになってきた私のスタンスを
書きたいと思いました♡

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クミシュラン皆川公美子です。


「美術の社会性⑤」~美術は贅沢品ではなく、人の感性を照らすもの  


美術の社会性①~その原初には感じるというモードがある。

美術の社会性②~美術を語るという文化についての考察

美術の社会性③~美術は商業的に成功すべきか。「お金」というものに対するブロック文化

美術の社会性④~作家になにを求めるか。おにぎりとエネルギー


↑ 今までのシリーズ連載はこちらです。

 

太古の昔から、人は神に祈りを捧げてきました。

自分の力の及ばない何かに向けて、壁画を描くことや、踊りを奉納することで、祈りにかえてきました。

そこにはいつも、アートがありました。

 

人の精神の動き、それを形に残すという行為。

それはきっとある特別な作家のものではなくて、誰もがやっているエネルギーの循環であっただろうと思われます。

 

現代においては、制作工程が複雑化していたり、専門的な知識が必要であったりする場面も多く、

基本的には美術を制作する人と鑑賞する側に分かれているような現状があります。

その図式は美術を売る人と買う人という図式も作りました。

絵画によっては60億円などという(マーク・ロスコ)、とても桁の想像がつかない額でオークションの落札が行われる作品もあり、それでなくても美術の作品を気楽に買うという習慣のない日本では、それは贅沢品である、という常識があります。

その常識の背景には「衣食住が足りてはじめて、手を出せる、基本的に生活には必要のないもの」という概念があるのだと思います。

 

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確かに、人が飢えていて、目の前におにぎりと絵画があったら、多分おにぎりに手を伸ばすのが、人間というものでしょう。

精神活動云々の前に、まずは心臓が止まらないということが大事だろう

まさに!
肉体あってこその、精神活動だと思えますし、
肉体がないと、五感という言葉も意味を持ちません。

けれど、そういう生きるか死ぬか究極の二択でなく、
生きていける状態がある、精神状態での話だとしたら・・・

 image

人間には、生きていくために感性というものが必要です。

人生の選択に迷った時、なんとなくこっちを選んだほうがいいと思う、というインスピレーション。

この儲け話はなにか「匂うな・・」という危機回避の直感、

目の前の人がそう言わなくても、今日は体調が悪いんだろうなとか、笑顔でいても「帰りたいんだろうな」という察知能力・・・

時には論理的な思考よりも精度が高いことがあるのは、誰しも人生を生きるなかで経験済みでしょう。感じ取るものごとは、ときに、センサーの役割をし、人を導きます。

それは原始の時代においては

「こっちの洞穴に入ったらやばそうな気がする

そういうことにも使われていた感覚だということは
想像に難くありません。

それは人が「美しい」と思う。
「おもしろい」と感じる、
そのこととベクトルが違うだけで根本的には同じことではないかと
私は思っています。

人生や仕事の重大な局面では直感で選択する、と発言している世界のトップ経営者が多いのもうなづけます。

アート・美術は、そういう人間の感じる力を、体現しているものです。

芸術品を購入しなくても心臓は止まらないかもしれないのですが、

もの感じるセンサーである感性を失ったら、人は危機管理の能力を失い、

道を選ぶ能力を失って、生命維持に困難をきたすのではないだろうかと、

私は感じています。


では、ロボットは同じことができるのでしょうか?
ロボットがする情報処理は感性ではないと言い切れるのでしょうか。


という話を先日している人がいました。

脳科学の分析が進んで、
情報処理は、今まで生きてきたなかで起こったことをインプットして
起こりうる危険をリスクを予測し、
ということをロボットやらせることができるようになってきた。

インスピレーション、とか直観というような
いわゆる情報処理の分野でないこと、
それについて、できない、と断言することができるほど
私にはそちらの専門知識がありませんが、

少なくとも、
無駄を愛し、
心地よさと幸せを感じることのできること、

そこまでロボットの性能は守備範囲を広げるべきかもしれません。



感じるということ、

この大いなる力を、

私は過小評価しないで生きていきたい


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クミシュランのこれからのイベント


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クミシュラン 皆川公美子です。

美術の社会性①~その原初には感じるというモードがある。

美術の社会性②~美術を語るという文化についての考察

美術の社会性③~美術は商業的に成功すべきか。「お金」というものに対するブロック文化




美術と社会性④」~今の作家に何を求めるか    

 

作家が自分の内面と向き合った結果である、アート。

 

それは美術であっても、音楽であっても、工芸であっても、その作家の表現であるかぎり、同じ要素を含みます。

 

そしてなぜ美術の制作するのか、ということには、作家によっていろいろな意図があることでしょう。

 

それが「精神性の実験」であれ、

「社会に驚きをもたらそうという野心」であれ、

「商業的金銭的な成功を射止める手段」であれ、

それが作家の生きることにたいする実験ならば、

ウェルカム

 

作家の感受性を 観客の感性で受け取る作品か、

作家の左脳的実験活動を 左脳的言語活動で受け取る作品か、

そういうことにも興味を持って見ています。

 

生きることは、すべてが実験だと感じます。

人生のなかでおきる体験は

自分以外の何者か、人間の完成にむかう実験ではなくて、

ありのままの自分に戻っていく実験を

人間はしているのだと思っています。

 

それは仏教でいうところの「空(くう)」。

 

自分の中心にある空洞に、自分はいったい何を入れたいのか、という

哲学的な問題に、作家はいつでも挑んでいてほしいと願います。

 

挑みながら生きているその姿やその作品を見て、

人は勇気をもらい、

生きる道を照らされて、

喜び楽しみながら歩いていく、

というのが美術のひとつの役割でもあると感じています。


美術と感性というのは、だれがみても切ってもきれない関係でしょう。

何もないところから、何か、を生み出すのがクリエイティビティだとしたら

その過程がどのようなものであるにせよ、

世の中に、今までなかったものが送り出される。

その意味を考えます。

image

現代美術や現代音楽は、なにかの規則性、アルゴリズムによって
自動的に作品が生み出されるという実験もよく聞きます。
規則性だけコンピューターに設定しておいて、
コンピューターがつくってくる「音列」を作品としたり、
コンピューターがつくってくる「模様」を美術としたり、
はたまた象が書いた絵はアートなのか、どうなのか。


わたしにとってこれは難しい問題ではありません。

アートは意識の産物であるというのが、そもそものわたしのアートの定義です。

ですので、制作過程において、
人間の意識が入っているものはアート、
(アルゴリズムの設定などはこれに入りません、
アルゴリズムも制作であることにはかわりませんが、
それをアートにいれると、ゲームもワードもすべてアートに入ってしまい、
アートの境目が定義できなくなるからです)

意識によってできたのではない制作物はアートではない、と定義します。
(どういうものを作りたいという意図がある場合は、そこに偶然性が含まれてもアートだと思っています)



話はすこし違う方向へいきます、
おにぎりとかお料理について。

お料理には愛を込めるとおいしくなる。
料理は愛情。
「おにぎりに愛情をこめるとおいしくなるんだよ」

このことを道徳的な問題として扱うというのは、今までもあったことだと思います。

そうではなくて、
意識というのを物理的にはたらくひとつのエネルギーとして扱う方向が
最近出てきています。

先日、その記事を見たのですが、今見つけられない
見つけたらまた追記します。


先日、ある実験をやっているのを見ました。
ステージ上の上にいる方に客席と後ろを向いてもらいます。

そして司会者の無言の合図によって
1度目は観客全員は「あんたなんか大嫌い!」という憎しみの意図をステージ上に送るのです。

そしてすこし間をおいて、2度目は
「大好きだよ」「そのままでいいいよ」という肯定のエネルギーを意図するのです。


そうして、実験の意図を明かされずにただステージ上で後ろをむいていた
その人に、司会者が感想を聞きました。
そうしたらその人は、「1度目はなんだかひんやり冷たい感じ、二度目は
とてもふわっとスペースがある感じ、あったかい感じ」と体感温度を答えました。
これを100人やったわけではなかったので、
偶然であるという主張をしりぞけることはできないと思うのですが、
それでもおおいに説得力のある実験だったと思います。
意図というのは人に、ものに届くのです。
おにぎりに愛情をこめる、とそれは人にエネルギーとして届いている。
見栄えの違い、見た目の違いとはまた違った次元で
人に届いているのだろうなと、思います。



話はずいぶんそれたかもしれないのですが、

アートというのは人間の意図をかたちにしたもの。

そこから作家は目をそらさないでほしい、というのがわたしの願いです。




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美術の社会性①~その原初には感じるというモードがある。


美術の社会性②~美術を語るという文化についての考察


美術が作家の個人的な制作現場から大衆のいる場所にリリースされたとき、

美術は社会性を持ちます。


今日はアートは社会的に成功すべきか。
あまりに大きなテーマなので、
そのひとつの見方を提示、、、という試みです。
昔から画家、というとベレー帽を被って貧乏である・・・ベレー帽というイメージが
つきまといますね。
それはおいといて(笑)

「美術の社会性③」~アートは商業的に成功すべきか   

 

美術が商業的な成功を収めるべきか、という議論はいろいろなところで
聞きます。
その是非について語っている時点で、
それはプロの仕事としての認識なのか?
と思うところもありますが、


特に日本では、アートは精神性の産物である、ということをもって、
アートが商業的に成功=お金に換金されるということを、
公的に推奨する発言がしにくい土壌があるように感じます。

 

この議題について簡単に語れない要因は、
いくつかの別々の問題を含んでいることにあります。

一つ目は、日本社会ではお金そのものではなくて、
お金について語ることへの、否定的な感情があります。

お金そのものを、欲しくない人はいないでしょう。

生活を豊かにし、行動の自由や、リスクに対する保証を受けられるお金は誰にとっても必要なものですし、積極的に「欲しい」ものであるということにかわりはないと思われます。

夫のお給料が増えたら、嬉しい。

宝くじが当たったら、嬉しい。
そこを否定する人は多分いませんよね。


 

ですがお金を「欲しい」と口に出すことは、
「はしたない」ことであるという教育がなされています。

以前友人が言いました。
息子がおばあちゃんからお誕生日にお金がよければお小遣いであげるよと言われて
本当は物ではなくてお金がよかったのだけど、「お金がいい」と言わずに黙っていた。
それが嬉しい、と。


私はこの話を聞いて、心底驚きました。
だまっているほうが、いいのか・・・
お金について口に出すくらいなら、
意思表示をしないということのほうが「いいこと」なのか・・・


他の国のメンタリティがわかりませんが、少なくとも日本では親から子供へ
「お金のことを口に出すんじゃない」という教育が、
「品格」という言葉にのせて語られます。

(テーマから外れるのでこのことはまた書きますが、
子どもたちは一生、お金とつきあって仲良くしていかないといけないし、
お金のことを淡々と語れないのは幸せなのかな?不幸なのなかな?)

それが、美術の現場でも、底辺に流れるメンタリティとして機能している気がしてなりません。

 

二つ目は、精神性というものをお金に換算するということへの抵抗感。

お金がある種「汚れたものである」という思想(儒教の影響でしょうか?)が、
人々の心のお金を受け取ることへのメンタルブロックとなっているため、
精神性の高い美術と汚れたものであるお金を
同じ土俵で語ること自体に抵抗がある、
そういう底流があると思われます。

ですが、逆に日本には「貧すれば鈍する」ということわざがあるように、
お金がなくなると思考がまわらなくなる、という考えもあります。
金銭的不自由にたいする感覚もきちんと持っているのです。

 

作家は精神的自由を持っているべきです。

そして少なくとも身体的に健康な生活を営んでいてほしい。

これは私の願いです

でもね、芸術は欠乏感のないところには生まれないのかもしれないし、
ある種の負の感情や恐怖感、切迫感がないと
いい作品はできないのかもしれません。
でもそういうクリエイティブ精神の根源的な話題とちょっと離れて
制作の材料や場所、そういうものに不自由せずに
表現の手段を確保するべきではないかと思います。

韓国などでは、新人作家の絵画が投資の対象となっている、という話をよく聞きます。


作品を味わうという段階が抜け落ちているのならば、
もしかしたら作家にとってはあまりよきことではないかもしれませんが、
健康な生活、自由な表現に一役買っているのであれば、
その一面では評価できることかもしれません。
そう、これは二者択一ではありません。



話は少しずれますが
先日、現代美術の会でディスカッションがあり、
アートとエンタテイメントの境界はどこなのか、という話がでました。


まずその境界線がある、という概念に、私はびっくりしました。
そしてその「常識的な境界線がどこにあるのか知ろうとする」
気持ちを驚きをもってみつめました。
アートは、その作品と向かい合った時の個人的経験がベースにあるはずです。
個人的経験をベースに、
その作品がアートなのかエンタテイメントであるか、
判断すること、それこそがアートな行為だと思います。
世界には絶対的な価値というものはそもそも存在しないし、
作品は作品に向かい合う自分を写しだす鏡なのだと思います。
誰かが決めた境界線、
それはどういう意味を持つのでしょうか。


確かに事実としてハリウッド映画はエンタテイメントとして
定義されることが多いです。
(ようするにお金儲けが一番か、精神の発露が一番なのかということ)
ハリウッド映画のプロデューサー業をしている友人に聞くと
「台本のおもしろさとか個人的なアート感覚なんて
優先させないよ。絶対にマーケットで売れる方向に本を書き直させる。」
とひどいことをいいます。。。
(アート好きにはひどいこと、と思えますよね)
売り上げのためには、過剰な個人のクリエイティビティは必要ないというわけです。
絶対に売れる方向というのは、今までに売れたという実績がある方向です。
だからアメリカの映画は勧善懲悪方式のシンプルなストーリーが多いのですね。
きっと。


それに抵抗する監督や脚本家が私財を投入して、
映画を作るというのは、よく聞きます。

もとい。
アートなのかエンタテイメントか。
難しいですが、求める結果や成果が
「精神的な発露や個人の考えに基づく実験」を1番の成果としている場合は
アート。
(売れない、ということではなく、売れるかどうかを計算された上で
世の中にリリースされていない。結果売れても、それはあくまで偶然だという方向)

「売れる、売り上げが上がる」ということを1番の成果としている場合は
エンタテイメント。

と考えることができるのではないでしょうか。

お金とアート。


成果はどこに。。。。



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クミシュラン 皆川公美子です。


昨日の


美術の社会性①~その原初には「感じる」というモードがある


には結構な反響をいただき、
こんなヲタクな記事に!?とびっくりした皆川です


今日は、アートそのものではなく、
それを語る、すなわち評価する、評論する、批評する、という
文化について書いてみます。

作る人、
語る人、ってことですね。




「美術の社会性②」~美術を語るという文化についての考察   

 

  で述べた「美術の社会性に関する原初的モード、感じるを取り戻す」を書くにあたって、

現在の美術をめぐる状況について、私の感じるところを表現したいと思います。

そのひとつの、美術を評論するという世界について。

美術をめぐる雑誌や、展覧会のリーフレット、ウェブマガジンその他、現代美術にかかわる記述はリアル、インターネットを含め、たくさんの媒体、多くの種類があります。

そしてそこにはとても興味深い記事がたくさん載っています。

それはアートが作家から発信された、その事象をにおける作家と鑑賞者の1対1の関係を超えて、アートを社会の潮流として捉え直し、カルチャーというものに昇華させる作業と言えるでしょう。

またひとりひとりの作家が発信している、作家の内部世界が「点」「個」であるとすれば、

その個別の存在を、「線」につなげ、ひいては時代という「面」にまで昇華させる作業であるとも言えます。

 

時代におけるカルチャーという「面」を眺め、知らなかった知識を吸収し、

新しい切り取り方に接する。そこにはめくるめく世界があります。

作家の作品と対峙し「感じる」というのとはまた別の、知的な喜びがそこにはあります。

時代の座標軸の上に、作家の感性を捉えなおすということにも通じるでしょう。

個々の解説や評論は、美術という世界の扉を開くものでもあり、

時代の評価や過去の流れの再評価という、人間の知的世界の「最もすてきな遊び」とも感じています。
(遊び、という言葉選びについては意味がありますが、ここでは長くなるのでふれません)

 

そしてそれは時代や文化を捉え直すという歴史の流れの中の作業であるため、
おのおのの書き手の方は、非常に真摯にその責務に向かい合い、
厳密性、正確性をもとめ、日々研鑽を重ねられる姿に感動を覚えています。

 

一方それは、ふつうに日常を暮らす一般の方には、「美術の魅力」として届きにくくなっているという現状も否めないかもしれません。

「むずかしい」。という言葉も聞きます。
もちろんすべてではないです。


言葉が難解であったり、
その記述を読むのに、一定以上の知識を必要とする場面が多いから。
それはしかし、正確な記述を目指すという意図のもとでは
ある程度しかたのないことです。


けれど、図らずも「美術をめぐるカルチャーに接するために、必要条件を満たすこと」という心理的外壁が存在してしまうという逆説が存在するのもまた事実でしょう。

 

 

美術をめぐるカルチャーが、
一般に広く受け入れられることを目的にもしている美術をめぐる論述、
それが逆に一般人を遠ざけているとしたら。

それは悲しいことです。

どうすればいいのでしょうか。

 

 

「現在の著述をもっと易しい言葉に変換し、わかりやすく美術を紹介すること」は一見その解決策に見えますが、実はそうではありません。

現在の著述や美術雑誌のいわゆる「むずかしさ」を平易なものにスライドすることは、

彼らの仕事ではありません。

 image

 

私は、こう考えています。
美術をカルチャーとして捉え直す著述や評論家の階層とは
もうひとつ別の階層が存在するのが一番良好な解決策ではないかと考えます。

それは「感じたこと、感じることを自由に表現しているひとたちの階層」

です。

 

美術というものを、知識の蓄積の上にたって、
歴史の流れとして評価している階層は、
ある種歴史的責任を負っています。
そこには正確な記述、難しくても論述的整合性のある記述が求められます。

それとは別に、

無責任に(ということばをあえて使います)、自分と向き合い、自分のなかに生まれた美術から受け取った感覚を表現する階層。それが美術を含むワールドのなかに必要なのではないかと思います。

無邪気に表現する階層、と言ってもいいかもしれません。

 無邪気に。
邪気なく。

そこには他者の判断や
世間的な常識やプレッシャーなどから
解き放たれたものが存在できるのではないでしょうか。

現代は、社会的にその事柄が「正しいか」「正しくないか」という二元論において、物事が議論されることが多い時代です。

もっと言えば「自分にとってどうか」「自分にどういう影響があったか」を語る場があまり好まれない風潮があると感じます。


しかし、ものごとが「正しい」か「正しくない」かは実態のないことがらです。

世間の常識、世界の善悪は、ニュースをみていてもわかる通り、全く意味をなしません。

常識は地域によってかわり、善悪は国の立場によってかわります。世界はカオスです。

人を殺めてはならない。というような
これ以上明白な善悪はないでしょうと思う事柄においても
宗教によってはある条件下においてこれをよしとしている人たちも
いるように見えます。

 


アートには国境がありません。
音楽も美術も、なにもかもひっくるめて、
そこにあるのは個が感じる心であるからです。

美術をめぐる文化にも、善悪や正誤の感覚なく、
「自分にフォーカスして」語れる場があれば、

それはアートを生み出す現場と
アートを時代の文化として昇華させる現場の架け橋となり、
その世界に健全性が生まれるのではないかと想像しています。


だからね、どうやって見ればいいの?とか
そういうのは全く必要ないのですよね。
ただ、自分に何が起こっているかを観察する。
自分の身体がどう反応するのかを観察する。


それが、アートを見る、ということだと
思うのです。

 

FBの投稿に反応してくださった

ぬまたたかこさん。

和文化、漆器の制作販売もされてます。

{42FA7D62-CECA-4F24-96B4-FD1B15C3D670:01}






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クミシュラン 皆川公美子です。

今日はちょっとヲタクなアプローチ

美術の社会性」①~その原初には「感じる」というモードがある  

 

美術は「人の意識のエネルギーを物質的なかたちにしたもの」であると定義しています。

作家が自分のなかから出てくる精神性・感情・心のあり方や恣意的な実験の意図、そういものを紙や、石や、金属や、布のうえに形にしたもの。

 

エネルギーというのは、「仕事をする能力」です。

(*wiki
仕事をすることのできる能力のこと
物体や系が持っている仕事をする能力の総称
。)



例えば机のうえのコップを横に押せばコップは移動します、それはコップに人間の力が加わって、そのエネルギーがコップに作用し位置の移動が起こったということです。

美術においても同じことが起こっていると考えます。

精神活動は意識のエネルギーです。
それが、肉体という入れ物のなかで動きまわっている。
それを他人が触れることのできるものとして、かたちにしたもの、それを美術と定義するならば、そのエネルギーは人間の精神に影響を及ぼします。

 

私が美術に対してとるスタンスは、「まずこの作家のエネルギーを物質をとおして受け取る」という1対1の対峙を味わうということです。

それは自分のなかで何が起こっているのか、ということを観察するということに他なりません。
まず私に何が起こっているのか。

 

食べ物を食べたり、
アロマのいい香りをかいだり、
お気に入りの音楽を聴いたり、、、
いわゆる五感をつかって何かを味わうとき、
そこにあるのは「感じる」という感覚です。

 

これは「思考を使って考えている」というのと異なります。

「これはビタミンが多く含まれているから体にいいに違いない」
というのは論理思考。

「あ~おいしくて体がワクワクするみたい」
という「感じるモード」とは決定的に違います。

考えていることと感じること。

考えていること、というのは肉体をとおらず頭で考えていることです。

感じている、というのは必ず肉体の感性を伴います。

 

美術における、自己への影響、自己への作家の仕事、を考えるとき、

「その絵が社会的にどうであるか、どのような評価をくだすべきか」という位置付けを考えることよりも前に、

私はこの「肉体を通して感じるという選択をする」ことが重要であると考えています。

 

なぜならば、個人的快・不快を感じることが、
本当の意味での行動につながるからです。

個人が快・不快を感じて、「あ~楽しい」「あ~気持ちがいい」「あ~うれしい」という基本的感情が起きるとき、本当の意味で絵に向かう気持ちのベクトルが起こる。

 

今現在、そのような感情のプロセスを経ずに、
美術という仕事をしているプロフェッショナルも、
最初の行動はこの「感動を味わう」「作家のメンタリティーを味わう」
ところから出発しているだろうことは想像に難くありません。

 

美術の社会性を考えるとき、私はプロフェッショナルやその周囲の玄人集団のみならず、

いわゆる普通の人にいたるまで、
多くの人が「絵画を購入する」「絵画を美術館に観に行く」「絵画を見て楽しむ」という風通しがよい、健康な社会的な空気、
ができることが必須だと考えます。

 

その鍵となるのは
「人が絵に対して感じるモードを取り戻す」
ということではないかと思えるのです。

 

 

 image

 

 

 

 

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