「少年犯罪厳罰化 私はこう考える」 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

「少年犯罪厳罰化 私はこう考える」

浜井浩一先生と山本譲司さんの論考が掲載されている新書少年犯罪厳罰化私はこう考える が発売になりました。

 浜井浩一先生と山本譲司さんは「処遇」の部分を担当。浜井先生が「少年院」と「少年刑務所」の違いを書いていて、山本さんはご自身が配属された、「掃き溜め」といわれる寮内工場のことを書かれています。

 まずは浜井先生の部分から抜粋。

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 その(注 2000年の少年法改正)背景には、少年による凶悪犯罪が多発しているという認識が存在し、刑罰の強化によって、少年非行の凶悪化に歯止めをかけたいという思いも語られていた。
 

 治安の悪化に歯止めがかからないという不安が蔓延し、厳罰化を求める声が高まるなかで、死刑や無期刑判決が増加するなど運用面での厳罰化が進行し、さらには2004年の刑法改正など、立法においても重罰化の傾向が加速している。
 
 そうした応報的な司法判断の是非はひとまず置いておくとして、ひとつ考えなくてならないことがある。それは、遠山の金さんよろしく、「被告人を懲役18年に処す。これにて一件落着」ということで終了するのは、裁判官、検察官や弁護士といった司法関係者の仕事であって加害少年や被害者遺族を含めた社会にとっては何も終わらないということである。


 最近でこそ、事件を風化させないという被害者遺族の努力によって、判決後の加害者にも関心がもたれるようになってきたが、依然として、ドラマやワイドショーで描かれるのは、犯人逮捕や裁判の判決までである。したがって多くの人にとっては加害者が刑務所に収容された段階で事件は終了する。
 
 (まずは事実を押さえておきましょうということで、量的データを紹介、質的には少年犯罪データベースさんで紹介されている昭和30年代の事件を使って以下のように再検証→)これらの事件は当然新聞で報道された。

 しかし、その記事を探すのはそれほど容易なことではなかった。最初の事件は、京都新聞の滋賀版に小さく掲載されていた。加害者と被害者の通う小学校の校長が、不幸な事件であり、被害者も体質的に弱かったのではとコメントしていた。

 もし、同じような事件が今起きれば、全国紙で大々的に報道され、連日ワイドショーが「ズバッ」と伝えるはずである。また校長がこのような加害者を擁護するようなコメントを出したらマスコミや世論から非難され、社会的に葬り去られるのは確実である。

新聞記事の中でひとつ興味深かったのは、学校側が加害者宅が事件直前にテレビを購入していたことから、テレビの暴力番組の影響ではないかと安易にコメントしていることである。今も昔も有識者等が思いつきをコメントするのは同じである。もしこの仮説が正しければ、そのあと、テレビが普及し、暴力的なシーンを含む番組が増加し、さらにはテレビゲームやインターネットがほとんどの家庭にある現代は子どもがもっと凶悪になっているはずである、しかし実際は図のとおりである(減ってる図が掲載されてます)。
 いずれにしても、前記二件とも現在起きたら、短絡的でキレる子どもたちと大きな話題となり、精神科医がゲーム脳の可能性を指摘したり、司法関係者が子どもの規範意識の低下を問題とするのは間違いない。

 この時代は子どもを狙った性犯罪や短絡的な理由で家族全員を殺す事件などが多発した時代でもあった。日本の家族が変質したと言われ、家族や教育の再生を訴える政治家も多いが、親が子を、子が親を殺す事件も、この時代のほうが多かった事実は、どう考えるのだろう。


  (続いて、この論考で主旨である「処遇」の説明になります。発達障害の少年を例にとってその流れを説明しておられます。ここはぜひ本を読んでくださいませ。)


 非行少年の多くは、それまでの人生において、周囲のものから非難され、拒否され続けた者が多く、刑罰もそうした本人に対する非難のひとつと被害的に受け止める者が多い。いずれにしても、被害者の更生は気持ちの変化だけで達成できるほど甘いものではない

 (裁判官に対して)本人の未熟さを指摘する一方で、規範的常套句を用い、刑事罰を選択した自己の決定を正当化するのは、少年審判を担当する裁判官としてあまりに無責任といわざる得ない。事件の重大性や被害者遺族の感情を考慮して、応報的な観点から被告人は刑事責任を負うべきだと考えるのであれば、そのように指摘するべきであり、精神的に未発達な少年に対して、刑罰が更正を促し、再犯を防止するかのごとき論理を用いるのは詭弁以外の何ものでもなく、問題の本質をあいまいにし、少年司法にとって有害である。


 本稿はあくまでも少年の更生を前提として、少年院と少年刑務所の違いを考えてきた。

しかし裁判所は加害少年の更生という視点だけで処分を考えるわけではない。裁判所がどういう決断をするにせよ、処遇を担当するのは矯正施設であり、少年が釈放後に再犯をすれば、マスコミ等の攻撃にさらされるのは矯正施設である。もし裁判官が刑事罰を選択するのであれば、刑罰と更正を両立させるような理屈をつけるよりも、刑罰と更生を明確に区別し、「少年の更生や再犯防止という観点からは少年院を選択すべきという判断も考えられなくはないが、何の落ち度もない被害者の人生を無残に奪った結果は重大であり、突然家族を奪われた遺族感情は峻烈である。少年の更生を論じる前に、まず刑罰に服してもらうしかない」と断じてもらったほうがすっきりする。

選択権のないさまざまな矛盾を押し付けられる矯正施設は与えられた条件のしたで、更生に向けた最大限の努力をするしかないのだから。


 本稿を書きながら、あらためて少年院と少年刑務所の違いを言葉で説明することがいかに困難な作業であるかを痛感した。その違いを整理しながら感じたことは施設規模の重要さである。昨年、東北の少年院と少年刑務所を参観した際に、少年院の院長がここの少年刑務所はちょっと少年院に近い雰囲気があると話していた。少年刑務所の代表施設である川越少年刑務所と比較すると、小規模で専門的なスタッフも十分ではないが、受刑者と刑務官の関係に少しやわらかい雰囲気を感じとることができた。
 真に更生を考えるのであれば、矯正施設は100人以内におさえるのが理想である。もちろんそのためには大きな予算が必要であり、国民的合意が不可欠である。
 本稿が少年司法の厳罰化を考えるうえでの一助となれば幸いである。

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 ここで浜井先生は大きな予算といってますが・・・そして山本譲司さんの論考に続くのですが、私にとってはびっくりな事実がー、それは明日以降にー。