鬱ぐ白秋 | 現代短歌とともに

鬱ぐ白秋

         鬱ぐ白秋

ふさぎの蟲」第百四十八行

悄気(しよげ)る、(ふさ)ぐ……涙がホロホロと頬つぺたを流れる。

 

 当行、白秋の心情の発露と言えよう。「鬱ぐ……」の「……」が記号文字として美しい。これが「ふさぎの蟲」をを示すのだろう。

 白秋が当時の心境を、「心は荒れに荒れすさんだ」と述べた、参考文、

 

雪と花火余言

東京景物詩改題に就て

七月に私の恋愛事件が破綻して、私は急転直下して涙の人となつた。翌年の春に至るまで、私は憔悴し、沈淪し、神経は狂ひ、心は荒れに荒れすさんだ。私は独になり、私の前後四方は真つ暗になつた。私は幾度か海を渡つて旅をした。苦しかつた。今思へば涙が垂れる。

かの悲しい『桐の花』の哀傷篇はその時出来たのである。而して寂しい冬の間に『桐の花』の編輯が()つと完成し、初めて市に出るやうになつた。

 私はたゞ泣いて歌つた。

 

死なむとすればいよいよに

いのち恋しくなりにけり。

身を野晒になしはてて、

まことの涙いまぞ知る。

 

人妻ゆゑにひとのみち

汚しはてたるわれなれば

とめてとまらぬ煩悶の

罪のやみぢにふみまよふ。

 

この野晒の一篇がその時の私の生活の全部である。この詩は必ずこの集の増補に入る可きものでありながら、(さき)に『白金の独楽』に収めて了つてある。それで今改めて、ここに転載して置く。以下略、

大正五年七月

南葛飾紫烟草舎にて

 

 

これで、白秋の「」が「ふさぎの虫」であることが解る。その(ふさぎ)の原因の一つが人妻の晶子、参考歌、

 

「桐の花」第三百三十三首

第九章「白き露台」第三十六首

小題「女友どち」の四

 

嗅ぎなれしかのおしろいのいや薄く(つめ)たき(なさけ)忘られなくに

 

 白秋の悲しみが「薄く冷(つめ)たき情(なさけ)」に込められている。

 元歌は、これだろう、

 

       題しらず     読人知らず 

                     

いそのかみふるから小野のもとかしはもとの心は忘られなくに 

 

 いそのかみは「ふるから(古い(から))」を出すための枕詞で、

もとかしは 、冬になっても落ちな柏の葉 、もとと元を連ねて、

  冬になっても落ちない「もとかしは」のように、いつまでたっても元の心はわすれられない。

 

 

 謎が一つ、白秋が「おしろい」に変えたのは「桐の花」からのようだ。「思ひ出」では「おしろひ」で、参考詩、

 

斷章

三十五

 

縁日(えんにち)の見世ものの、(くさ)き瓦斯にも(おもて)うつし、

怪しげの幕のひまより活動寫眞(くわつどう)の色は透かせど、

かくもまた廉白粉(やすおしろひ)の、人込(ひとごみ)のなかもありけど、

さはいへど、さはいへど、わかき身のすべもなき、涙ながるる。

 

 「思ひ出」では、

鏡に映つた兒どもの、(つら)には凄いほど眞白(まつしろ)に白粉(おしろひ)を()つてあつた、

 

 晶子の歌では、

 乱れ髪 舞姫

 

四条橋おしろいあつき舞姫のぬかささやかに撲つ夕あられ

 

 晶子は「源氏物語」が基本だから、「白粉」とは、「御白い」になる。

 

「ふさぎの虫」では、「白粉(おしろい)を水にも溶かさないでべたべた塗りつける」となって訂正されている。多分、晶子に指摘されたのだろう。「大言海」を熟読していたのだから、間違いの「おしろひ」に愛着した理由があるに違いない。

 

 鬱ぐとは、気持ちが閉じてしまって、悲観的になること。明と暗、第一首は「あかあかと」で明、最終首が「夕さりくれば」で夜明けを待つ暗だろうか。

 読み解いてきて、青年詩人の苦悩が読み取れて美しくいい詩文だと思う。