白秋の悪因縁
白秋の悪因縁
「ふさぎの蟲」第百四十九行
と、Gen-gen, byō-soku-byō…… Gen-gen, byō-soku-byō……
「と」とは、芝居のト書き。台本に書かれた、セリフ以外の、上演するために必要な登場人物の動作や行動、心情などを指示した文章。
当行では、呪文を指す、「ふさぎの虫」文中に「南無妙法蓮華経」とあるから、法華経にある陀羅尼だろう。
陀羅尼(だらに)とは、インドの昔の言葉「梵語」で、仏さまにお唱えする祈りの言葉、つまり「真言(しんごん)」をいい、真言とは精神統一して願い事をかなえる為の呪文をいう。
この「ふさぎの虫」での白秋の祈願は「男女の縁切り」、悪縁からの解放を願う。これは、次の文章で理解できる。
Gen-gen, byō-soku-byō …… Gen-gen, byō-soku-byō……お岩稲荷大明神様……南無妙法蓮華経……どうぞ旦那との縁が切れますやうに……
「悪因縁だ」――軈てしてほつと眼を下に落して又染々と剃刀の刃を手元に引よせた。
「悪因縁だ」――もう逃れつこはありやしない。
南無妙法蓮華経……
まだまだあの女将はやつてゐる。キリキリと砥石に一当あてて、じつと聴くともなく刃を返すとホロリと涙が落ちた。以上
白秋にとって悪因縁とは、前世からの因縁により、再度罪を犯すこと。俊子との悪因縁がこれにあたる。
また、俊子が「悪因縁」の対象であることの例証として、挿絵を見てもらいたい。俊子の下の蛇が描かれている。蛇とは「安珍清姫伝説」で、清姫が蛇となって安珍を焼き殺したことを暗示している。
白秋にとって、また妄信でもある。「わが生いたち」より、参考文、
後には晝の日なかにも蒼白い幽靈を見るやうになつた。黒猫の背なかから臭の強い大麥の穗を眺めながら、前の世の母を思ひ、まだ見ぬなつかしい何人かを探すやうなあどけない眼つきをした。ある時はまた、現在のわが父母は果してわが眞實の親かといふ恐ろしい疑に罹つて酒桶のかげの蒼じろい黴のうへに素足をつけて、明るい晝の日を寂しい倉のすみに坐つた。その恐ろしい謎を投げたのは氣狂のおみかの婆である。温かい五月の苺の花が咲くころ、樂しげに青い硝子を碎いて、凧の絲の鋭い上にも鋭いやうに瀝青の製造に餘念もなかつた時、彼女は恐ろしさうに入つて來た、さうして顫へてる私に、Tonka John. 汝のお母つかさんは眞實のお母さんかろ、返事をなさろ、證據があるなら出して見んの――私は青くなつた、さうして駈けて母のふところに抱きついたものの、また恐ろしくなつて逃げるやうに父のところに行つた。丁度何かで不機嫌だつた父は金庫の把手をひねりながら鍵の穴に鍵をキリリと入れて、ヂロツトとその兒を振りかへつた、私はわつと泣いた。それからといふものは小鳥の歌でさへ私には恐ろしいある囁きにきこえたのである。以上
その「悪因縁」が現実に起こったのが、鎮夫の自害だった。
日露戦争直前にロシア文学を好む鎮夫が、露探(スパイ)と疑われ、その苦痛から短刀で咽喉を突いて自殺した。
彼との縁も「悪因縁」と知る、「前(さき)の世の恋か」と書いている参考詩、前世では、恋人同士であった、
邪宗門
灰色の壁の第六連
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
悪業の終りたる
時に、ふとわれの手は
物握るかたちして見出ださる。
ながむれば埴あらず、鏝もなし。
ただ暗き壁の面冷々と、
うは湿り、一点の血ぞ光る。
前の世の恋か、なほ
骨髄に沁みわたる
この怨恨、この呪咀、まざまざと
人ひとり幻影に殺したる。
注、はに【埴】、きめの細かい、黄赤色の粘土。昔、かわら・陶器の原料にした。
鏝、こて、しっくい・泥などを壁に塗りつけるのに使う道具。
前(さき)の世の恋か、白菊丸伝説。前世では恋人同士で心中した。
因縁とは、仏語、物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。すべての物事はこの二つの働きによって起こる。そして、輪廻転生する。
白秋が「ふさぎの虫」を書いている書斎は、お岩稲荷裏、霊岸島にある。お岩伝説では、子供の頃疱瘡を病み、醜い顔になり、結婚できたが夫の浮気で不幸な死に方をして、夫一族を呪い殺した。
呪殺というのだが、白秋にとっては、鎮夫が剃刀で自害したので「剃刀」が悪因縁の象徴語になったようだ。参考歌、
III 清元
二
ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる庭さき
三
微かにも光る虫あり三味線の弾きすてられしこまのほとりに
蟋蟀ならばひとり鳴きてもありぬべしひとり鳴きても夜は明けぬべし
鶏頭が悲しみの象徴語であるのは詩を読めばわかる。
「光る虫」と「蟋蟀(いとど)」がどう結びつくかが謎だったが、「昼のホタル」と同様に、白秋の幻視のようだ。挿絵を眺めていて、理解できない物が描かれている。鶏頭の左にあるのだが、コオロギとホタルを合わせた生き物のようだ。
白秋、絵解きが好みのようで面白い。最後に、
ははははは……………………
ははははは……………………
白秋、「悪因縁」を笑い飛ばしているのだろうか。