嵯峨嵐山文華館の常設展「百人一首ヒストリー」。久しぶりに覗いてみると、展示物が変わっていました。以下の文章は、展示パネルからの引用です。
定家と百人一首
百人一首とは、百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰。藤原定家(1162~1241)が小倉山の山荘で鎌倉時代初期に揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、後世に定着して「小倉百人一首」と呼ばれるようになりました。
『明月記』は藤原定家が日々の出来事を克明につづった日記です。平安末期から鎌倉時代前期における歴史・社会・文学を知る上で極めて重要な資料とされ、現状では19歳から56年分の日記が確認されています。
今回は、1200年、定家39歳の時に書いた内容の一部を見ました。
庶民への普及
百人一首がカルタの形になったのは、今からおよそ300年前の江戸時代になってからの事。南蛮貿易によってポルトガルからもたらされた「カード」を意味する「Carta(カルタ)」に由来するものです。
かるたの伝来によって、室内遊具として和歌の上の句(5・7・5)と下の句(7・7)を分けて二枚一組にした「歌かるた」が多く作られるようになりました。
百人一首のほかに『古今和歌集』『伊勢物語』『源氏物語』などの王朝文学の和歌を選んだ歌かるたが現存しますが、圧倒的に普及したのは百人一首かるたでした。
18世紀になると出版技術が発達し、『紅葉百人一首小倉姫鑑(編:池田善次郎、画:渓斎英泉)』など、絵入りの「百人一首本」が続々出版され、上流階級だけでなく、広く一般に知れ渡るようになりました。
百人一首は、浮世絵や滑稽本などでパロディ化され、庶民の娯楽のひとつとなり、生活のなかに浸透していきます。今回はその一例として、鮮やかな色刷りの百人一首双六《小倉山百首雙六》を見ました。
紫式部と百人一首
今回は、大河ドラマ『光る君へ』影響もあり、紫式部(生年970~978、没年1014~1031)にスポットライトを当てた展示でした。紫式部は百人一首の歌人でもあり、「めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲がれにし 夜半の月かな」が第57番に採用されています。
下の画像は、紫式部の札を比較したものです。
金箔入りのゴージャスな札。当時日本で金が採れたことを物語っています。17~19世紀のカルタは、上の句が書かれた札と、下の句が書かれた札で対になっているのが主流でした。
遊戯から競技かるた
幕末から明治にかけて、一首全てが書かれた読み札と、下の句のみが書かれた取り札が登場。これにより、百人一首を暗記していない人もかるた遊びを楽しめるようになり、さらに普及が進みました。
そして明治37年(1904)、ジャーナリストの黒岩涙香が東京かるた会を設立。取り札を活字の総ひらがな三行書きにした「標準かるた」を競技用に制定しました。その後改定を重ねながら現在の競技かるたの礎が築かれたのです。
ちはやふる小倉山杯は、競技かるた界の男女トップ選手8名が集結し、対戦する大会です。令和2年(2020)2月に嵯峨嵐山文華館畳ギャラリーで第1回大会が開催され、その後毎年開催されるようになりました。
優勝者には扇が授与されます。
前回見た時よりも優勝者の名前が増えていました。今年は5回目で、川瀬将義氏が優勝しています。
さて、山下恵令氏は来年優勝を奪回できるでしょうか。
以上、2〜3回見たから省略というわけにはいかない、嵯峨嵐山文華館の常設展でした。