散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

「大原美術館所蔵 名画への旅ー虎次郎の夢」の続きです。以下の文章は展示パネルから引用しました。

 

 

  Ⅳ スペイン、イタリア、スイス

 

三度目の渡欧は、1922年5月から1923年5月までの一年間でした。「今回もまた大原様の特別なる加護を受けたることを感謝すればするほどに、今回の旅行は非常なる責任と義務を要すべきことにて、とても一通りの力にては勤まり申さずと存じ居り候」。

 

 

孫三郎の信頼と期待に応えようと、虎次郎が名画購入のためにどれほど勉強し、審美眼を磨き、どれほど歩いたか。孫三郎から「買物打ち切れ」と電報が来るまで、虎次郎は精力的にフランス、ベルギー、スウェーデン、ドイツ、スイスなどを訪れ、名画の蒐集に奔走しました。

 

 

第4章で見た作品のうち、この時期に蒐集したものをピックアップしました。

 

フェルディナント・ホドラー(スイス、1853~1918)

《木を伐る人》1910年

 

 

シャルル・ゲラン(フランス、1875~1939)

《タンバリンを持つイタリアの女》1911~14年頃

 

 

エル・グレコ(ギリシャ/スペイン、1541~1614)

《受胎告知》1590頃~1603年

 

 

児島虎次郎(1881~1929)自身も、一度目の渡欧時に、《スペインの丘(1920)》絵を描いています。

 

 

  Ⅴ エジプト

 

1922年5月8日、虎次郎の三度目のヨーロッパへの旅が始まりました。もちろん、いつものように神戸港から出航しましたが、今回は行きと帰りの途中で都合二度、念願のエジプト滞在を果たします。首都カイロや古都フスタットを訪れ、馬の背に乗り砂漠を散策し、夢に見たピラミッドの前にも立ち、また古代エジプトの小さな神像や陶器の破片なども手に入れました。

 

 

「度々企てあるこの旅のいよいよ可能となれる事は、すでに観ぬ間に何物かを得たらん心地す。ああ五千年の夢の跡、人は生れ、人は逝きて末に流れ降りて栄し文華の跡、幾年年を夢と眠りしこの過去の崇高なる大芸術の力に今は吾れ接するの時に至り、感慨無量にして長嘆を催す」。大文明の永遠と、人生の無常、諸文明の源流を目の前にした「長嘆」の向こう側に、どこまでが西洋で、どこからが東洋なのか、そして人とは何かと問う虎次郎の思念が、渦のように経廻る様が想像されます。

 

 

第5章で見た蒐集物のうち、気に入ったものをピックアップしました。

 

《シャブティ(ファイアンス)》

シャブティとは、全身が布で巻かれた小型の人形のことで、古代エジプト王朝時代、副葬品として制作されました。土、ファイアンス、木、石、青銅など、さまざまな材質のものがあります。

 

 

《人型棺断片》

 

 

《人型棺の顔部分》

 

 

虎次郎自身も、エジプトを描いています。

 

《金字塔 埃及王朝五千年之遺跡》1926年

 

 

《ルーヴル美術館所蔵「ウセルハト墓壁画」の模写》1919年

 

 

《ラムセス2世葬祭殿(スケッチブックより)》1923年

 

 

  Ⅵ フランス、ふたたび

 

1923年5月1日、三度目の渡欧から帰国した虎次郎は、すぐさま倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)の開院準備に携わっています。6月2日に開業開始を控えていたこの病院は、病院独特の冷やかさを減じるべく様々な工夫を凝らされましたが、帰国後まもない虎次郎がその任に当たりました。病室をはじめ、院内の随所にパリで買い求めた名画の複製画を掲げ、ガラス天井の温室のような待合空間の中央には、虎次郎がデザインした欧風の噴水も造られました。

 

 

さらに同年8月には新たな収集を披露するための「第3回秦西名画家作品展覧会」(倉敷小学校新川校舎)と「埃及・波斯及び土耳古[エジプト・ペルシャ及びトルコ]古陶器展覧会」(倉敷小学校新川校舎)の開催準備がありました。

 

 

その後、1928年にも、同様の展覧会が京都と東京で「泰西美術展覧会」として開催されました。このときは、鑑賞者の理解に資するものとして画家の略伝がまとめられた図録が制作されました。展覧会終了後、フランス絵画を精力的に紹介した功績により、虎次郎に対しフランス政府から勲章が授与されました。

 

 

最後に、1928年11月、虎次郎は、明治神宮絵画館壁画《対露宣戦御前会議》の制作にあたり極度に疲弊し、京都帝国大学医学部附属病院に入院します。翌年1月、どんよりと底冷えする京都より、晴れの多い暖かな岡山のほうが療養にはよいと考え、岡山医科大学附属病院に転院しましたが、その甲斐なく、1929年3月、虎次郎は永眠しました。47歳でした。

 

 

翌1930年、虎次郎の業績を記念し、孫三郎は、世界恐慌の真っ只中にもかかわらず、自邸の庭に大原美術館の建設を決断します。孫三郎にとって、美術館の建設は、大原社会問題研究所(1919)、倉敷労働科学研究所(1921)、倉紡中央病院(1923)などと同様、社会的幸福を実現するための重要な施設だったと考えられます。だからこそ、孫三郎は、石井十次の岡山孤児院に運営資金を拠出したのと同様、虎次郎には名画の購入資金を惜しみなく与えたのでしょう。

 

 

岡山県倉敷市の美観地区にひっそりとたたずむ大原美術館は、倉敷出身の実業家大原孫三郎によって1930年に創設された日本で最初の西洋美術館です。その礎となるコレクションは、孫三郎と近隣の成羽町出身の洋画家児島虎三郎との深い友情の結晶として形作られました。

 

 

第6章では、開館当初から所蔵していた著名な作家の作品をピックアップしました。

 

カミーユ・ピサロ(セント・トーマス/フランス、1830~1903)

《ポントワーズのロンデスト家の中庭》1880年

 

 

ジョルジュ=ピエール・スーラ(フランス、1859~1891)

《風景》1883年頃

 

 

ポール・ゴーガン(フランス/マルキーズ諸島、1848~1903)

《かぐわしき大地》1892年

 

 

クロード・モネ(フランス、1840~1926)

《睡蓮》1906年頃

 

 

アンリ・マティス(フランス、1869~1954)

《エトルター海の断崖》1920年

 

 

モーリス・ド・ヴラマンク(フランス、1876~1958)

《静物》1922年

 

 

茶室「中之島玄庵」の展示作品は、アルベルト・ジャコメッティ(スイス、1901~1966)作《ヴェニスの女Ⅰ(1956)》でした。

 

 

モデルとなったのは、妻のアネット。痛々しく痩せ細った彫刻は、欲望や邪念を断ち切った仏教的なニュアンスの存在にも見えなくもありません。

 

 

照明が明るくなったり暗くなったり。暗くなった時の「ヴェニスの女」は、幽霊のようにも見えました。

 

 

なんだかいいものをいっぱい見れて得した気分。大原美術館を歴史ある美術館と知らず、会期終了間際に駆け込む、自分の無知さが恥ずかしくなりました。

 

 

おわり