菱田春草と画壇の挑戦者たち | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

先に、福田美術館の後に行った美術館「えき」の話。

 

 

「菱田春草と画壇の挑戦者たち」を見ました。東京画壇の展覧会です。朦朧体のイメージが強い菱田春草(1874~1911)ですが、東京美術学校時代は線のある絵を描いていたとは意外でした。

 

 

以下の文章はウィキペディアからの引用です。

 

 

  1. 線への挑戦


明治7年(1874)旧飯田藩士・菱田鉛治の三男として生まれた春草。飯田学校(現:追手町小学校)卒業後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学びます。明治23年(1890)東京美術学校(現:東京藝術大学)に入学。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦(1835~1908)。春草は1学年上の大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心(1863~1913)の強い影響下にありました。

 

 

主要作品

 

菱田春草(1874~1911)

《月下狐》

明治32年(1899)

 

 

横山大観(1868~1958)

《無我》

明治30年(1897)

 

 

下村観山(1873~1930)

《西洋婦人》

明治23年(1890)

 

 

  2. 空気・光への挑戦

 

過激な日本画改革論者であった岡倉天心には反対者も多く、明治31年(1898)、天心は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任しました。これに伴って、当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も学校を去り、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加します。

 

 

天心の問い「空気や光を表現するにはどうしたら良いか?」に対して、春草らの出した答えが「没線描法」です。洋画の外光派に影響され、東洋画の伝統的な線描技法を用いず、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表現。評論家から「朦朧体」と激しく批判されましたが、その姿勢を貫き通しました。

 

 

主要作品

 

菱田春草

《月下白鷺しらさぎ

明治34年(1911)

 

 

西郷孤月こげつ(1873~1912)

《月下飛鷺ひろ

明治33年(1900)

 

 

下村観山

《朝日ニ瀧》

制作年不詳

 

 

  3.  色彩・古典への挑戦

 

明治36年(1903)春草は大観とともにインドへ渡航。明治37年(1904)には岡倉、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国しました。明治39年(1906)には日本美術院の五浦いづら(茨城県北茨城市)移転とともに同地へ移り住み、大観、観山らとともに制作に励みます。

 

 

しかし、春草は腎臓病による眼病(網膜炎)治療のため、明治41年(1908)には東京へ戻り、代々木に住みました。代表作《落葉》は、当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっています。明治44年(1911)、満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患(腎臓炎)のため、死去しました。

 

 

主要作品

 

菱田春草

《月下波》

明治40年(1907)

 

 

菱田春草

岸樹がんじゅ秋風之

明治43年(1910)頃

 

 

菱田春草

《竹に猫》

明治33年(1900)

 

 

  水野美術館について

 

今回の展示物は全て、春草の故郷・長野県にある水野美術館所蔵のものでした。コレクターもしくは、出展作を選んだ人の好みもあるのかな?目録を見ていると、「月」に関する作品が多いなと思いました。

 

 

展示物を見た後は、特設ショップで《月下狐(1899)》をモチーフにしたクリアファイルを購入。春草初期の作品です。

 

 

裏面は狐の部分を円く切り抜いて月を表現。裏表両方とも気に入り、即決でした。

 

 

この季節、日が長すぎてイルミネーションはダメですね。

 

 

この日(6/17)は、一日中どんよりと曇っていましたが、運よく雨は免れました。